首里城火災と人文書
はじめまして、七月社と申します。
創業して2年の、いわゆる「ひとり出版社」で、主に学術書・人文書を出版しています。まだまだ刊行点数は少ないですが、大きく分けてふたつのジャンルでラインナップを増やしていこうと考えています。
ひとつは近現代文学やその周辺領域、たとえば出版・メディア史など。もうひとつは沖縄を中心とする民俗学、文化人類学、歴史などです。
そんな出版傾向の弊社にとって、昨年10月31日の朝に見たニュースは衝撃的でした。沖縄の文化的な象徴ともいえる首里城が、骨組みも露わに、赤い炎に包まれていました。あわてていくつかのニュースサイトを渡り歩いて得られたのは、正殿をはじめ、何棟かの建物が全焼したという情報でした。「沖縄の象徴」が、うそのようにあっけなく燃え落ちてしまったのです。
しばらく呆然としたのち、気持ちが落ち着いてくると、あることが思い出されてきました。
ちょうど今、首里城に関係する本を2冊編集している……
首里城は、15世紀初頭、尚巴志(しょうはし)にはじまる琉球国の王城でした。農業がはじまった沖縄本島で、その余剰によって力を蓄えた按司(豪族)たちが抗争を重ね、その末に尚巴志が王国を樹立したというのが、琉球史の通説です。しかし、政情不安定な東アジアの海では、倭寇をはじめ、まつろわぬ者たちがしのぎを削っていました。交易や略奪によって力をつけた倭寇ら外部の勢力が沖縄島に入り込み、王国を建てたのではないか。
1冊目の本は、それを多角的なアプローチで立証する試みで、つまり、首里城の主であった王の出自は沖縄の豪族ではなく、ヤマトに由来する倭寇なのではないかと提起する本です。
もう1冊の本は、複数の著者が沖縄の様々な芸能を論じる内容で、首里城から至近の距離にある沖縄県立芸術大学の先生方が中心になって編まれる本です。
そこに収録されたある論文は、ライトアップされた美しい首里城の描写から始まり、それに続いて著者は「私たちはこの風景が創り出されたものであることを知っている」と書いています。現在の首里城は1945年まで存在した首里城の「レプリカ」であり、首里城という「仮構」なのだとし、その「仮構」がどのように作られたものであるかを検証することが必要だと述べます。
首里城は一般に沖縄の象徴であるかのように捉えられていますが、そんな単純なものではないことを、この論文は教えてくれます。
首里城火災の衝撃が日本全国を駆け巡ってから時をおかず、再建の話がメディアを賑わせはじめました。募金額の多さや、募金のために尽力する人々の様子を伝えるニュースを何度も目にしました。ある沖縄の音楽学者からきたメールには、これほどまでに首里城が県民のアイデンティティになっていたことに驚いたと書かれていました。
「県民のアイデンティティ」が焼け落ちたいま、それをなんとしても再建・復興させなければならない──そのような感動的で直線的な言説がメディアを覆っていました。
こんな状況のなか、今編集している2冊の本をそのまま出版してよいものか……。首里城の主はヤマトに出自をもつ倭寇だとか、沖縄の象徴とされる首里城がそんな単純なものではないと述べるような本は、沸騰した首里城再建の機運に水をさすことにはならないだろうか。
けれども、です。テレビやネットのニュースが報じる再建の「物語」に繰り返し触れているうちに、違和感を覚えはじめました。時間的・分量的な制約が強く、また視聴者や読者の共感を求めるニュースメディアは、どうしてもシンプルな「物語」を必要とします。だから、余分な情報や物言いは排除される傾向にある。
それに対して、2冊の本はそれぞれ300ページをこえるボリューム。そして、首里城再建への直線的な「物語」からは外れていても、そこには沖縄の歴史や文化に対する真摯な想いが底流しています。
沖縄の新聞社が行ったような、首里城の写真集を作って収益を寄付するようなことは、弊社には到底できません。
けれども、このタイミングで、首里城に関わるこの2冊の人文書を世に送り出すことは、なんとも迂遠な方法ではありますが、小さな出版社にしかできない沖縄文化の復興への貢献なのだ、そう信じたいと思います。
1冊は『琉球王国は誰がつくったのか──倭寇と交易の時代』
で、2020年1月末の刊行、もう1冊は『沖縄芸能のダイナミズム──創造・表象・越境』(仮)で、3月の刊行を目指しています。