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ちいさな版元、あんまり歌って踊らないインド映画の配給に踏み切る

生活の医療株式会社は、ほぼ一人出版社のまま今年で設立10年になった。定期刊行物があるでなし、もともとスローペース版元の名を擅にしていたが、このところ輪を掛けて出版ペースが落ちている。でも安心して欲しい、これは〈耳タコ〉の出版不況の話ではない。

実は、昨年から『アハーン』(原題:Ahaan)というインド映画の配給に奔走している。こんな作品だ。

ダウン症のある青年アハーンは、家族と一見不自由なく暮らし、母の手作り菓子の配達を日課としている。一方、気むずかし屋のオジーは、マイルールの押しつけと潔癖な性格に疲れた妻に見限られてしまう。ひとり家に取り残されたオジーは、妻の手料理にありつくために、妻が仲良くしていた配達青年アハーンを利用することを思いつく。外出の自由も与えられていないアハーンにとっては、オジーが両親の善意の頸木から逃れる鍵となる。妻の手作りのビリヤニ(インドやイスラム文化圏の炊き込み料理)欲しさに外に出たオジーもまた、ドライブを重ね、アハーンと妻の手料理を分け合いながら、他者と交わり笑う悦びを少しずつ取り戻す。凸凹コンビの一風変わった友情は、彼らの不自由な日常を描きかえるか——。

(後半、出版にこじつけるつもりだが、映画配給に至るまでの無鉄砲と偶然ばかりの経緯を少々……)

弊社のことを知らない読者の皆さん(つまり、これを読んでくださっている98%の方々)にお断りしておくと、弊社(≒私)は映画に明るくない、寧ろ疎い部類に入るかもしれない。学生時代に1年半で300本程VHSを借りて見続けたことがあるが、この20年はたまに乗る飛行機の小さいモニターで観る以外は、年に1本観るか観ないかである。
そんなわけで、『アハーン』を観たのもLCCの国際線飛行機の中だった。コロナ禍の2022年、閑散とした機内でこの作品に出会った。短い作品紹介を読むに、タイトルキャラクターのアハーンを演じるアブリ・ママジ氏はダウン症当事者のようだ。上記の通り映画全般について寡聞なもので、そのような作品を知らなかった(のちにアジア映画紹介の第一人者の松岡環さんに色々と教わることになるのだが……)。しかも、これまで数作品しか観たことのないインド映画だ。何を期待していいのかわからないまま、再生ボタンを押した。続く80分、三人席を独り占めしているのをいいことに、解像度の低い小さなモニターに向かって一人泣き笑いした。
エンドロールが終わらないうちに周囲を見まわして、斜め後ろに座っていた人に座席を倒しながら「Ahaanという映画を是非観て下さい」と訴えていた。人と人との距離が遠くなっていた当時、ギョッとさせたに違いない。私の厚かましさが顔を出したに違いないが、2019年にメルボルン★インド映画祭で公開されたこの作品には、多くの人にインストールされた「ソーシャルディスタンス」をリセットする効果があった。東京に帰ってからも、会う人会う人に 「Ahaanという映画がとにかく良かった」と触れ回った。そして、ほどなく日本では公開されていないことを知ると、今度は公開予定が気になる。こういう時は、制作会社か監督に直接聞いてみるのが早い。
何度か日本での公開予定についてのお伺いメールを送ってみたが、数ヶ月たっても返信はなかった。弊社は、国内でも「知る人ぞ知る」版元だから、そういうことには慣れている。ただ、これは、少し執着心にまかせて、Facebookで見つけた監督ニキル・ペールワーニー氏にメッセージを送った。今度は即日返事があった「日本での配給はない」と。それから配給に踏み切るまでは、得意の見切り発車をしたまでで、展望も戦略もないに等しかったが、正直、翻訳書の出版と同じようにイケるのではないか、そういう甘々の認識だった(考えてみれば、翻訳書の売り方も「わかっている」ことなど何一つないのだが……)。英語字幕を元に自分で翻訳をして、Adobe Premiere Proをこねくり回して字幕をつけた。それを手に、映画館に体当たり営業をするも、全く反応がない。どうも、私個人ではどうにもこうにも埒が開かなかった。書籍出版ではやったことのないクラファンをやったり、友人のツテを頼って一人配給会社を立ち上げた松岡優馬さんと出会ったり、その松岡さんに紹介してもらったラビットハウスの増田さんに配給に協力していただいたりして、今秋の劇場公開になんとか漕ぎつけたのである。
こんな調子で、ついつい「配給に至るまで」から紹介してしまうから、「映画の配給をすることになって」と家人に報告した際もツッコミを入れられてしまう。

「結局、なんであんたが 配給するの?」と。

これに答えつつ、これまでの弊社の出版物と絡めて、少しだけ映画の内容に触れれば、少しは「版元」日誌らしくなるかもしれない。

弊社の限られた刊行書籍の中に絵本が4タイトルある。『ママのバレッタ』、『ぼくはレモネードやさん』、『ちいさなてのおおきなうた』、『ぼくはチョココロネやさん』である。いずれも、著者は当事者や家族だ。

 

 

4作品とも病気や障害そのものの説明は限定的で、当事者が過ごす日常生活——周囲の人たちとのかかわり、そして、病気や障害が個人の一面に過ぎないことが彼(女)らの視点を活かしつつ描かれている。かといって、これは私の勝手な解釈も含まれるが、安直に共通理解や共感を求める作品ではない、同情などもっての外。なにはともあれ「どんな景色を見ているのか知って欲しい」そう異口同音仰っていたと思う。そこで、一部の読者は「では、どう接したら良いのか」と思ったかもしれないが、一般的な接し方の正解は提示されてはいない。というか、そんなものはないのだろう。当事者同士ならば良き理解者になることが約束されるわけでもないのだから、結局、個別の関係性でしか分からないことも多い。絵本作品を通して、また、制作の過程で、そういう「言ってしまえば当たり前のこと」を再確認してきた——つもりだった。だから、「ダウン症当事者がタイトルキャラクターを演じる」を煽り文句とするのが適切かは、悩ましいし、今も若干の躊躇がある。そう、こう見えて私は結構意識が高いのだ。

ところが、である。

アハーンのストレートな訴えを耳にする度に、ダウン症という障害についての浅薄な予備知識に基づく仮想問答が浮かび上がってきたのだ(ちなみに、映画にはそういう視聴者を諫めるところがあるわけでは全くない、あくまでもエンタメの温度感)。「おいおい、マジかよ……。」この自分の浅薄さを痛切する体験は、泣けたし、笑えた。そして、無性に共有したくなったのだ。
そういうわけで、映画と絵本を同列に語ることはできないが、この映画の配給と4冊の絵本の出版は私の中ではつながっているし。映画配給の内的動機としては、充分だろう。
さて、家人が訊ねたのは「より適任の人がいるのではないか」ということだったかもしれないし、「あんたはソコまで身の程知らずなのか」という問い(であり叱咤)だったかもしれない。答えはいずれも”Yes”だろうが、読者は私の〈向こう見ず〉と弊社の経営展望について、家人ほど心配する必要はない。ただ、映画を(そして絵本を含む既刊書を)楽しんでいただければ嬉しい。
映画配給に踏み切ってからこれまでは、無知蒙昧で猪突猛進な私が、渡る世間は鬼ばかりではないことを学んだ道程でもあった。経済的成功は約束できないが、出版に手を出そうか迷っている方々にも、「たぶん、助けてくれる人がいる」と伝えたいし、私自身の書籍出版でもヨコのつながりに、もう少し積極的になるつもりである。あらためて、生活の医療社をお知りおき下さいませ。
最後に、ほとんど書籍を出さ(せ)ない出版社にもお鉢をまわしてくださった版元ドットコムにの運営の皆さまに感謝申しあげます。

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