フランス語と仏教の不思議な関係
太平洋戦争末期、多くの大学生が学業なかばで戦地へ送られました。「学徒出陣」です。そのとき徴兵されたのは文科系の学生でしたが、彼らにまつわるこんな話があります。
-入隊し、上官の前に整列させられた学生たち。上官が一番端に立っている学生に聞いた。「大学でのお前の専攻は何だ?」 学生は答えた。「はい、英文科であります!」 それを聞いた上官は、「なんだと⁉ 敵国の言葉など学びやがって、この非国民が!」と激怒した。
上官は隣に立っていた学生に向かって同じ質問をした。その学生の専攻はフランス文学だったので、自分も同じように怒られるのではないかと内心ビクビクしながら、「自分の専攻は、仏文科であります!」と答えた。それを聞いた上官は、笑みを浮かべてこう言った。「ほう、仏教を勉強しているのか。お前は、なかなか感心な奴だな」―
これは本当にあった話か、はたまた、「仏文」が「フランス文学」を意味することを知らなかった軍人、という文脈で当時の軍隊の状況を揶揄した作り話なのかは定かではありません。私も仏文科出身なのですが、当時、仏文の教授や学生たちの間でよく話されていたエピソードです。ちなみに、フランスの漢字表記が「仏蘭西」に統一されたのは明治20年頃とのこと。もちろん単なる当て字ですので、仏教とは関係ありません。
さて、そろそろ本題に入ります。今回のテーマ、「フランス語と仏教」の関係について語る前に、まずは私とフランス語との関係からお話ししておきます。
前回の版元日誌、「行き当たりばったり夏の旅」という雑文のなかで、私はこんなことを書いていました。
「思い返せば、一部で『世捨て人』と呼ばれる仏文科学生だった20才の頃から今までの約30余年、行き当たりばったりの無計画人生であった」
注目したいのは、「世捨て人(・・・・)と呼ばれる仏文科学生」という箇所です。ここで私がこのような表現を使った理由は、「仏文科に入る人間=将来の計画性がない人」ということを強調しておきたかったからに違いありません。ただし、ここでいう仏文科学生とは「仏文科の男子学生」をさしているのであって、女子においてはその限りではありません。
どういうことか詳しく説明しましょう。
実際に仏文科の男子学生が世間から「世捨て人」というレッテルを貼られていたのか、あるいは、われわれ自身が、やや自嘲気味にそう言っていたのかは覚えていませんが、当時の私たちには確実にそういったイメージがありました。その理由はこうです。
・フランス文学あるいはフランス語を学んでも、(フランス語の教師にならない限り)社会に出てから、ほとんど役に立たない。
・企業の採用担当者は「仏文科の男子」と聞くと、なんだかこだわりは強いが、職業人としては使えなさそう(ある種の社会不適合者)、と思って敬遠しがち。
・そんな事実をわかっていながら、あえて仏文科に入ろうと思う時点で、すでに将来のことを真面目に考えていない、世捨て人的な発想の持ち主である。
実際に、当時私たちの大学の仏文科で、まともに就職する男子学生は、ごくわずかでした。大学院に進むか、渡仏するか(パリの大学に留学など)、どこかへ放浪の旅に出るか、といった感じだったのです。
ここで留意しておきたいのは、この「世捨て人」という呼称は、前述したように女子学生にはあてはまらないということです。仏文科の女子たちの多くは、いわゆる名門のお嬢様高校を卒業して仏文科に入り(高校時代からフランス語を勉強していた、という人も多い)、卒業後はみな華々しく大手商社、大手銀行、大手航空会社などに就職していきました。
大学3年のときに半年ほどパリに遊学したのち、なんとか卒業した私は、銀座にある飲食系企業を主なクライアントにしている小さな広告代理店に入社。企画営業として働き始めました。当然ですが、仕事でフランス語を使う機会などありません。フランス語の知識が役に立ったとすれば、飲食店のチラシやメニューに書かれているフランス語のスぺルミスを指摘することぐらいです。
たとえば、「あー、このフランス語、ここがdeになってますけど、本当はduですよ」とか、「cafèのスぺルが違ってますね。è(アクサングラーヴ)ではなく、正しくはé(アクサンテギュ)を使って『café』です」といった具合。いわゆる、ちょっと嫌味な “おふらんす野郎” です。
その後、いろいろな仕事に就きましたが、英語を使うことはあれども、やはりフランス語を使う機会はほとんどありませんでした。仏文科は出たけれど、そこで得た学識は(かつて徴兵された仏文科学生と同じく)、まったくもって宝の持ち腐れだったのです。
そして月日がたち、私は書籍出版の仕事を始めました。これまで、さまざまなジャンルの本を手がけてきましたが、このところ力を入れているのが、京都にある弘法大師空海ゆかりのお寺「東寺」の僧侶・山田忍良師による「法話集シリーズ」の出版です。これは、著者が長年にわたり語ってきた法話を再編集して書籍化したもので、現在、第3巻まで発行。第1巻の英語翻訳版も発行しています。
そんな私に昨年、転機が訪れました。著者と相談し、この法話集を英語だけでなくフランス語にも翻訳して、「フランス人(フランス語圏の人々)に向けて、仏教の教えを発信していきましょう!」ということになったのです。
実は、東寺を訪れる外国人観光客にはフランス人が多く、実際、フランス人は仏教、特に「密教」に興味を持つ人が多いといわれています(空海が真言密教の根本道場として定めたのが東寺です)。もともと哲学や人間学への造詣が深く、加えてスピリチュアル、すなわち神秘的世界への興味を持つ人が多いフランス人と、神秘主義的な要素が強いとされる密教は親和性が高いのかもしれません。加えて、密教で使われるさまざまな仏具や仏像、「曼荼羅(マンダラ)」などの仏教美術も、美術好きなフランス人の興味をひくのでしょう。
現在、この法話集フランス語版の制作は佳境に入っていて、今年の夏までには発刊する予定です。もちろん日本語からフランス語への翻訳作業は、パリ在住のフランス人翻訳者に任せています。ですが、私に多少なりともフランス語に関する知識・理解があることで、フランス語文章の内容にまで踏み込んだ編集ができていることは、手前味噌で恐縮ですが自負すべき点であります。
こうして、かつて「世捨て人」と言われた私は、気がつけば「フランス語のできる編集者」として、世の中の役に立つ仕事を任せられるようになったのです。「ああ、仏文に入ったこと、若き日にパリでブラブラしていたことは無駄ではなかった……」「仏文科卒という私の不遇の人生が、ついに日の目を見たのだ!」、そんな心境です。
私は今、「仏教の教えを、仏語で世界に発信する」という重要な使命を担っていると感じています。「仏教を仏語で」、これはなんとも不思議な縁(えにし)だ! と一人で勝手に盛り上がっている、というわけです。さらに、もしかたら仏教と仏蘭西の間には、本当に何か深い因縁のようなものがあるのではないか? などと思いはじめています。
かつて「仏文を仏教と勘違いした上官」は、あながち馬鹿にできないのかもしれません。À la prochaine !(それではまた!)