近代出版史はリフレインするのか
この原稿を書き始めた2024年10月1日、志学社はちょうど第7期に入った。
創業は2018年の10月1日で、もうひとりの役員である山田とともにこの日を選んで登記したのは、秦の暦が10月歳首(1年が10月から始まる)ことにちなんでいる。
志学社選書の1冊目である『侯景の乱始末記』の復刊が成ったのは約1年後なので、ずいぶんスロースタートで、しかもその直後にコロナ禍に見舞われている。
いまから思えばよく凌いだなと思われるのだが、当時は(いまも)必死であったようであまり詳しく覚えていない。
ただ、年ごとに売上は上昇していて、直近の第6期が最高になるような右肩上がりを続けている。ありがたいことである。
さて、なにせ知名度がないので、志学社のコンセプトについて簡単にまとめておこう。
①志学社ではおもに人文書、特に東洋史・日本史の書物を中心に刊行する。
②名著の復刊を積極的に行う(品切れになると古書価格が高騰しがちであるため)。
③著者が持ち出しになることは避け、やむを得ない事情がある場合を除き印税を支払う。
④ただし、原稿については必要に応じて内容に注文をつける(直しをしてもらう)。
これは6年経った現在でも守っており、内容が論文集であってもいくばくかの印税をお支払いしている。
「そんなので儲かるのか?」という声が聞こえてきそうだが、もちろんそんなには儲からない。ゆえに自社での出版以外の仕事もかなり請け負っている。とはいえ本が赤字になっているということもない。
たとえば、志学社選書でも『侯景の乱始末記』、『不老不死』、『増補新版 漢帝国と辺境社会』、『漢文の学び方』は重版しているし、翻訳では『完訳 華陽国志』に重版をかけている。
在庫は自社で管理しており、入出庫処理はすべて私がやっている。これで倉庫代などが浮くというのは当初からの目論見で、コストカットできるところは徹底的にやっている。返品率はざっと計算したところ2%程度。注文出荷制なので低いのは当たり前だが、もう少し下げられないか考えている。
電子書籍は役員の山田が制作しており、一部の書籍は組版も担当してもらっている。このあたりを内製できるのは弊社の強みのひとつである。
また、今年から志学社にぶら下がる形で書肆imasuという私のひとり文芸レーベルをはじめた。
十文字青『私の猫』、森見登美彦・円居挽・あをにまる・草香去来(私のペンネームだ)『城崎にて 四篇』を刊行し、独立系書店との直取引が非常に増えた。
サイン本大量作成ために、見返しにサイン入りの紙を貼るという方法を用いているが、これはドンドン真似をしていただきたい(さっそく石原書房さんが採用してくださったと仄聞した)。
書肆imasuを立ち上げた理由はいろいろとあるが、外部編集者として他社さんの軒先を借りる必要が、諸条件の変化でだんだん薄れてきたというのも大きい。
さて、最後にいささかの私見を記しておきたい。
折に触れて書いたり言ったりしていることなのだが、出版業界は斜陽なのではなく、再編期に入ったと考えている。
限られた大手取次がほとんどの出版物を配送し、金融機能も兼ねるという現在のかたちは、総力戦体制下で日配が組織されたことに淵源を発する。
明治から昭和初期にかけて発展してきたわが国の近代出版が、戦時下で完全に統制されたのち、再分割のような形で戦後に現在の日販・トーハン・日教販、いまはなき大阪屋などが設立されるわけで、日配以前の250を超える取次があった時代とは切断されてしまっている。
ただ、近年の独立系書店の活況やあらたな流通の試みを見ていると、近代出版史を繰り返しているような感触をおぼえることもしばしばである。
細かな点については小林昌樹氏ら出版史研究者、あるいは「軽出版」を提唱する仲俣暁生氏に任せるとして、たとえば岩波茂雄は高額納税者として貴族院議員(互選)もつとめたが、岩波書店はもともと古書店であった。
いま、新刊・古書・ZINEをあつかい、自分で出版もするという独立系書店の出現を、私は大歓迎するし、各種イベントの盛況もしかりである。
90年代半ばまでの「出版華やかなりし頃」とはまったく形が異なるだろうけれども、また別の「華やかな」時代に立ち会うことができて自分は幸せだと思っている。
今後について少しだけ記す。
歴史関連書の刊行については従来通りで、選書も出るし論文集なども出る。また、書肆imasuでも新刊をいくつか準備している。
イベントなどにも積極的に出ると思うので、この小文を読んでくださった方とお会いできるのを楽しみにしている。出店のお誘いもお気軽にいただければ幸いである。
野望としては、書店をやりたいというのがある。私の出版業界でのキャリアは書店から始まっている。いまのところまだ具体的なことはなにひとつ決まっていないが、相談に乗ってくださる方は常に募集している。
あれもこれもと欲張って詰め込んだために読みにくい文章になった。お詫びして擱筆する。