もろもろ
マスク越しにものを言う生活も長くなった。マスク越しで息苦しいということもあるが、それだけではない息苦しさも多々感じる今日この頃である。
2000年代、子どもと一緒に18切符で東海道線を乗り継ぎ東京まで行くのに、あまりの外国人乗客の多さに驚いた。琵琶湖に泳ぎに行くと、そこにも多くの外国の人たちがいた。それは観光客の訪問先ではなかったと思う。生きていくのに切々としている人たちのひとときの休息であった。自分も生きていくのに差し迫った状況があるが、同じように彼らも生活の必死さ、そしてその合間の楽しみ、自分と同様の状況なのかなぁと感じていた。
しかし、なぜそんなに多いのかそれを知りたい。そんな疑問を同じように感じてくれていた著者の研究が進み、弊社の『多文化共生地域福祉への展望―多文化共生コミュニティと日系ブラジル人』という本がある。
こちらの書籍は1980年代後半から日本に移動してきた日系ブラジル人について、誰がどのように支援することができるのか、多様な人々が共に生きていくためのコミュニティの在り方を論じているものである。著者は2000年代から社会福祉のなかでの社会的排除ということが重要な課題であると考え、なかでも深刻なものの一つに移民問題であるとし、取材し、調査してやっと15年ほどかけて著作に至った。
「移民政策はとらない」日本社会の中で明らかに目の前の人々の多くが外国をルーツにもつ人たちであるにもかかわらず、課題も問題も山積みであった。そして、この2021年、名古屋入管でのウィシュマンさんの死亡という事件も起きた。再発防止のため考えることは多い。毎日新聞でもこの事件に対して特集が組まれて折々参考にさせていただいている。
問題の一つにあるのが「入管内部の意思疎通の改善」であると記載(2021年11月5日)されていたのが印象に残る。誰も目の前で死にかけている人を放置しておきたいとは思っていないだろう。死にかけているかもしれないと思う人もまた、理由もわからないままなぜ放置されているのだと理不尽さで身を引き裂かれただろう。しかし、法律はこれを保護する制度を取っていた。DV被害者である彼女は不法入国者である前にDV防止法により保護されうるものであるが、現場の指示や報告がいきわたらなかった。副業に出入りしている行政書士事務所でも同様の見解をお話しされていた。
そもそも移民については一体いつのころから私たちはこれを受け入れていたのか、対馬の城を訪ねても、こんなに昔から私たちは海の向こうから来る人々と暮らし、戦い、共に生きていたのだと思える。渡来人はどうだったのか、平氏は瀬戸内海を横行して日宋貿易で力を蓄えた。戦国時代にはキリシタンとして生きる人々もあったし、東南アジアでは日本人町が多くできていた。鎖国の世でも大名は海外には常に注意を向けていたし、明治になれば日本からの移民は奨励されていた。移民関係文書の多さには驚く。
そして、現在も多くの移民問題を抱えながら、現場での指示が至らないというのは一体どういうことなのだろう(原稿書いてから後、告訴事件になった)。マスク越しに私たちは会話を失ってしまったのだろうか。いやそう思ってもいけない。人の思いは一つの方向に向いてしまうとあかんと思う。もともとそういう在り方では存在していないと思う。多文化も多様性もありありの泥沼の中で屹立する何かを探し求めて生きていたい。