デザイナーだから有名なデザインの本ばかりを?
グラフィックデザイナーだからその分野の有名な本ばかりをコレクションし、自分の書棚に並べることに夢中。気づいてみると、とても愚かなことだと思います。昔よりも気楽にできることもあり、それだけをすることが専ら最近の傾向です。
このことでデザインを習得できたと勘違いしてしまうのでしょう。また、その本を目の前にして異様に論がたつ、あるいはネット上でポライトしているとか自分の作品や情報をやたら広め、氾濫させる。ぼくには最低の行為に見えてならないのです。それらは全てデザインの本質ではありません。おそらく他の分野にも同じようなことがいえることではないでしょうか。一種の現代病だと思います。そのようなご時世に、日暮里で大隠が古風な出版社を細々と営んでいます。ここにはスイスから遥々やってきた精度のよい最後の世代の平台の活版印刷校正機と、3トンのラテンアルファベットのオリジナルの金属活字。そして茶室。その環境で毎日試行錯誤している。とても変わった出版(者)shuppanshaが一人います。
元々はグラフィック(印刷を前提にした)デザイナーでした。若いときに、夢にまで見たスイスのバーゼルという都市にある伝統ある工芸学校で、タイポグラフィという文字と関わるデザインの教育を受け、そこでの教えを継いで越後長岡に新しい大学を立ち上げることに尽力いたしました。12年余その大学におりましたが、赴任中次第に考えている教育の世界と違ってきたので、退きました。そのことが出版社を立ち上げることに繋がってくるとは、その当時は全く思ってもみませんでした。
思い起こしてみると、そのバーゼルという街には、自宅を出版社と称している矮小な版元が当時まだ何件か残っていました。ぼくは一件一件、住所から電話帳を使って探し訪ね、本を売っていただきました。特に思い出深いのは、主にRuderという先生が私家版を多く出していたPharosという出版社。とても珍しい本を手渡しで手に入れたことは、感動的でした。今では同じ本をネット上で一瞬でポチることができますが、ぼくは全くちがう物体だと思っています。お金がなかったので一冊づつ、訪ねるたびにそこのおじさんから譲っていただきました。ぼくの目には営業のような他の人が働いていないように見えましたが、とても素晴らしい出版社に映りました。そのような強烈な印象から、ただただぼくも残りの人生はこういうことをしていきたいと願っています。わざわざ訪ねてきた本当にうちの本を欲しい人に、その本のエピソードを添えて。
ちょうど一年前、『ボタニスト--パリの標本館を築いた植物学者たち』という本を出版いたしました。その前に『タイポグラフィの美しき時代』という本を私家版で作ったのですが、あるベテランの出版社社長から「出版物ではない」と告げられ、悩みながら、やっとの思いでISBNがついた自前の本を世の中に出すことができました。
実はこの本を出す前までは、自分の出版社なので100%自分の想い通りの本を作れると思っていましたが、実際始めてみると予期せぬことがいろいろ起きて、事前のイメージと全く違う本に仕上がりました(現実の子供のように人格を帯びているかのよう)。しかし版元として初めての子供のような本で、とても愛おしいです(親バカ)。
この本との出会いはひょんなことでした。『タイポグラフィの美しき時代』のキーパーソン、ペイニョおじいさんとの出会いを探っている最中に、フランス絡みでこの「植物」が浮上してきたのです。偶然にもなんとなく第一弾でやってみたかった自然科学。植物というテーマは今まで生きてきていまだに引っかかっていることの一つでして、小学校の夏休みに採集した植物を押し花にして大失敗した記憶が蘇ってくるわけですが…。この本に出会って、歴史的に辿ってみると植物学者の世界に何かしら類似していることに驚きました。というのも、当時おじいさんたちが考えた書体の分類は、まるで植物学のようなのです。
この本は、机に向かって植物学者を勉強する本ではなく、様々な植物に囲まれて避暑をしながらハンモックの中で読んでいたら、そのまま居眠りをしてしまってまた読み出す、といった映画の中の生活のシーンに出てくるような、とてもゆる〜い副読本のイメージで(内容はそうではありませんが)、手軽な出版物にしたいと考えました。無駄なものは削ぎ落とし、装丁も単純な機能を持った姿になりました(しかし本としての貴賓は残して)。そして初ということもあり、翻訳本としては予想外に安い定価を実現いたしました(ここにも挑戦しましたが結果が出ず、第二弾からはそうもいかないと思いますが)。
本文組は、ラテンアルファベットを科学で感じさせる横組みで、好スタートを自分の中で実感。見本組もとてもよかったので決めました。が、その横組みが大事件を起こしたのです!今ネット上では、縦組みを目にする機会は圧倒的に減っています。横組みへの挑戦、それにはある編集者から忠告を受けましたし、翻訳者からも抵抗感を示されました。もちろん出版物が売れるに越したことはありませんが、しかし本道を見誤ってまでもそちらに擦り寄るようなことは邪道です。今後もその部分は正確にしておきたい。ましてこの本は「科学」の話です。小説や日本の伝統を伝える情報ではないのです。ラテン語を根元とするアルファベットの植物名などが主役ですから、日本語縦組みとは一緒にできない。つまり縦組みは絶対にあり得ない内容なのです。翻訳の大元フランスの匂いがぷんぷんする内容を、売れる本にするために仕立てるのは、デザインの本道を外れる振る舞いだと思います。さらに、ぼくのデザイナーとしてのスタートラインが横組みでもあり、「カナモジカイの左横組」を初の出版物で曲げるわけにはいかない。本に登場する植物学者たちと同様、日本語を合理的にしてきた先人の努力を踏みにじることはできません。
だからと言って、縦組みを否定するつもりは全くありません。先述の私家版は縦組みでしたし、頭の中にある第三弾の本も縦組みを予定しています。つまり、内容に応じた日本語の多様性を見せていきたいと考えています。そこが本文組和文の醍醐味なのです(内容が違うのにいつも同じ組では消極的すぎるのです)。日本語のタイポグラフィのイロハのイを忘れてはいけません。
さて、今取り掛かっている本の紹介をいたしましょう。第一弾の植物に続いて、次は教育です。同時にデザインです。スイスで体験した教育があまりにも印象的だったので、その謎を解いていきます。この教育によって、現在のぼくという人間が成り立っているのです。話はぼくの入学前に遡りますが、中枢に君臨した先生の教えをそのまま小さな書物に封じ込めることを毎日模索しています。ある意味、姿形が「バイブル」の登場です。現時点で本文の翻訳はほぼ出来上がり、ラフのゲラ(ページアップ)まで出来てきました。これから詳細を作り込んでいきます。来年には発刊できる予定です。そのあとの第三弾は、歴史の本になるかと思います。一冊一冊仕上げています。まだまだ長い道のりです。通常、小さな出版社は営業上ジャンルはひとつに決めていると思いますが(そして何本も同時に進めている)、うちは全く違います。その根底にあるのは、ぼくの学生に接する環境なのだと思います。大学の先生をしているとき、ぼくの研究室の書棚を見たある客人に、「先生のご専門はいったいなんですか?」と聞かれたことがありました。他の人にはめちゃくちゃに見えたことでしょう。当時書棚には、とてもマニアックで手に入れにくい、デザインが未完成の興味深い、古今東西の専門書が多くありました。そこからぼくが学生のためによく考えて一冊だけ選んで見せて、とにかく学生の頭の中をその一冊の本で混乱させ、答えを求めることを楽しんでいました。まだぼくの頭の中は、その延長線上にいるのだと思います。最近はもうしていません、「茶の湯」絡みの古い本しか読みませんが、笑。
申し遅れました、正確にいうとぼくの出版社は、ぼくが歩んできた道のりの中で、「なぜ」ということを証明していく、あるいは裏付けになっている書物を出版していきます。絶対に電子書籍は発刊しません(昔、Apple社のApplication Developerを数年にわたってやりましたが、このような情報の表し方は意味がないのでやめました)。うちの出版物は、指一本をガラスの上で滑らせて気軽にわかるものではないからです。なぜなら、内容の全てが、紙の本を読まない人は読まなくてよいものだと思っているからです。断捨離をしてしまったので、もうぼくの周辺にはかつてのたくさんの個性的な本たちはいません。でも心の中に、そしてこれからのTypeShop_g Pressから発刊される数少ない本に、その影を感じることができると思います。どうぞご期待ください。
写真:
1.
タイプショップgプレスのヴィンケルハーケン叢書について、ドイツ語のWinkelhakenは活版印刷の職人の道具の一つで「ステッキ」といわれるもの。この道具に金属活字を直接並べて、単語、文章にしていく。ちなみに和文のように文選箱というものは使用しない。本来は直接ここにコンポーズする(一本では意味を持たない活字に生命が宿る瞬間)。つまり書籍の源を意味する。シンボルマークは活字の直角(古代から幾何学の基本)に由来する。
2.
かつて新鮮なスタンダードとして存在していた判型で近年は見られなくなったが、かの串田孫一卿が『アルプ』の書籍で採用していたサイズをリバイバルで使用している。叢書シリーズに相応しく、テキスト(縦組み、横組み)の組版によし、小さい判型にもかかわらず写真(ポートレイト、ランドスケープ)位置を的確に1ページにレイアウトできる。
3.
読者がいつどこでも片手で扱うことができる、読みやすい機能的な体裁の本を追求。つまりミニマムに徹して流通に乗せている。現在の既刊は全てペーパーバック。極力装丁パーツを削減し、安価に仕上げ、定価に反映させた。また、流通上、仮製本であるフランス装は不可能だが、拙書はかがり綴じのため特装としてルリユールが可能。返品された本の二度目のお勤めは、前代未聞のことを考案中(ジャケットすり替えや三方削りなどの狡いことはしない)。