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紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬
巻次:上巻
原書: 大清相国
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2016年9月
- 書店発売日
- 2016年9月4日
- 登録日
- 2016年7月22日
- 最終更新日
- 2016年9月13日
書評掲載情報
2016-11-27 | 日本経済新聞 朝刊 |
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紹介
汚職はびこる朝廷に、清廉、実直、滅私奉公を貫いた一人の官僚、政治家がいた。その名は陳廷敬。
本書では、スーパーエリート官僚への登竜門である科挙試験に合格後、清の康煕帝におよそ50年間仕えた実在の人物、陳廷敬の生涯をたどる。
権力闘争、腐敗、汚職に屈することなく、諫言をも憚らず、皇帝に忠義を尽くし、庶民の気持ちをも理解した「理想の官僚」、陳廷敬。
―劉備のような王朝の始祖でもなければ、項羽のような英雄豪傑でもない。清の“賢帝”康熙帝を育て、浮沈を経験しながら魑魅魍魎の跋扈する官界を生き抜き、宰相にまでのぼりつめた男の物語。
前書きなど
まえがき
王躍文
この度、小説『大清相国』の日本語版が出版されることとなり、大変嬉しく思っています。
この小説で描いているのは、三百年以上前の清代の康熙王朝の物語で、文淵閣大学士まで務めた陳廷敬が主人公です。清の朝廷は明の制度を引き継ぎ、「相(宰相)」という官職を設けてはいないというのに、なぜこの小説のタイトルを『大清相国』にしたかといえば、それは中国人の古(いにしえ)よりの伝統として、明、清代を通じて内閣大学士を宰相と見なしてきたことにあります。清代の昭(しょう)槤(れん)による『嘯(しょう)亭(てい)雑録 聖祖の鰲拝(オボイ)逮捕』には、「碁を打つことを口実に、索額図(ソンゴトゥ)相国(しょうこく)を召し、画策した」と記されています。康熙帝による鰲拝逮捕の協力者である索額図は、人々から「相国」と呼ばれていたのです。康熙帝が陳廷敬に下賜した詩に曰く、「陳廷敬には、房玄齢と姚崇のような賢相の風格があり、同時に李白や杜甫のような文才がある。宮錦で作った袍子(長い上着)に身を包み、太平の盛世の宰相になんとふさわしいことか」。陳廷敬は大平の世の宰相に相応しく、盛唐時代の才気溢れる大詩人にも匹敵する、と皇帝は讃えているのです。
康熙年間は六十一年の長きに渡り、その歴史の功績は煌々と長い歳月を照らすものです。康熙年間から乾隆年間にかけての清朝全盛期の最初の皇帝として、康熙帝はその朝廷に多くの文臣、武将を集めました。しかし、権力の中枢で高い地位についたことのある大臣の中でも、陳廷敬のように終生、無事に生きおおせた人は稀であり、その多くは「風なくとも三尺の浪立つ」宦海の荒波に呑み込まれて舵取りを誤り、転覆しています。文学作品の題材としての陳廷敬は、その政治人生の中で、「待つ(等)」「耐える(忍)」「穏健に行動する(稳)」ことができ、時には「無情に決断する(狠)」こともできました。また「人臣を極めながらも控え目に立ち振る舞う(陰)」こともできたのです。いわゆる「等、忍、稳、狠、陰」の五字の宝刀は、陳廷敬がその類まれなる人生の境遇下で守ってきた座右の銘です。正統な中国文化では、権謀を蔑み、これを「術」として否定してきました。儒家の伝統は、「道」を貴び「術」を軽んじるものです。陳廷敬のこの五文字の座右の銘には「道」も「術」もあり、その長い官僚としての経験の中で悟るに至った政治における智慧といえるものです。陳廷敬は、国を開いた王朝の始祖でもなければ、不朽の英雄豪傑でもありませんが、皇帝の身辺で、智力に富み、欠かすことのできない、皇帝を支える臣下だったのです。
陳廷敬は幼い頃より神童の誉れ高く、八歳で詩を作り、十四歳で科挙の最初の試験に合格して「秀才」と呼ばれる身となりました。二十一歳の年、陳廷敬は「進士」に及第しています。以後、半世紀を超える長きにわたって朝廷に仕えました。吏部、戸部、刑部、工部の四部の尚書、ならびに左都御史、翰林院掌院学士、経筵講官を歴任し、最高職位として文淵閣大学士まで登りつめました。経筵講官とはすなわち帝師ですが、その職につく者は、学問に優れ、人品方正なる者でなければなりません。陳廷敬が経筵講官に任じられたのは三十七歳、康熙帝二十一歳の時でした。康熙帝はこの師を高く評価し、「日々の進講、朕の心を啓発し、甚だ益あり」と陳廷敬を賞賛しています。
晩年には、康熙帝から「卿は長者なり、完全無欠の人と称するにふさわしい」と評価されています。私は次の言葉でこの康熙帝の心中の「全人」ぶりを表現しました。
「古より清廉なる官は苛酷なる人が多いが、陳廷敬は清廉ながらその心には思いやりがあり寛大である。有能な官は、独善的であることが多いが、陳廷敬は有能ながら、善に従うこと流れるが如くであり、他人の良い意見を進んで受け入れる。好(よ)き官は凡庸なことが多いが、陳廷敬は好(よ)き官ながら、精力的かつ有能であった。徳官は懦弱(だじゃく)であることが多いが、陳廷敬は徳官ながら、辣腕を振るった」――私の評価は、すべてこの先賢の功績を根拠としています。
陳廷敬の故郷は山西省の南部、今日の晋城ですが、清代には沢州府と呼ばれていました。沢州の陳家は、明末清初にはすでに豪商としてその存在感を示し、炭鉱の採掘、鉄器の鋳造を手がけてきました。陳家の鉄鍋と鋤の刃は、遠くは日本や東南アジア諸国にも輸出されていたといいます。二、三百年前の長崎の埠頭には、きっと陳廷敬の家の鉄器製品が山積みにされていたことでしょう。
清朝時代の年中行事や日常生活を紹介した書籍に『清(しん)俗(ぞく)紀(き)聞(ぶん)』があります。江戸時代、寛政年間の長崎奉行であった中川忠英の編纂によるものですが、出版時期は陳廷敬の頃より時代はやや下るものの、この書に掲載されている当時の中国の東南沿海地域における民間生活の風習及び日常の百態は、康熙年間とそう変わらないものだったのではないでしょうか。古の時の流れは、緩やかなものだからです。
『大清相国』の執筆にあたり、私は『清俗紀聞』を含む、直接は関連性のない書物も多く読み、意識的に三百年あまり前の息使いを感じるよう心がけました。『清俗紀聞』にはたくさんの挿絵もあり、建築、衣服、用具、玩物などのあらゆる事物が掲載され、礼儀作法の所作、行事、日常生活などを含む当時の中国の官と民の生活の情景も描かれています。文字描写も極めて詳細かつ正確なもので、例えば「家庭賀拝」の項目には、「官僚及び庶民は、元旦にはいずれも身なりを整え、天地に礼拝する。庶民が天地を礼拝するのは、古来よりの伝統であり、天地の恩に感謝の念を伝えるためであった。その後、家祠で神と先祖に参拝する」、「元旦試毫とは、赤い紙に吉祥な句を書くことをいう」「 元旦には精進料理を食べる者が多く、一年の初めは必ず慎重にすべしという意味が込められている」と掲載されています。これを見ると、当時の日本の奉行が、中国の民間生活の詳細に注目していた様子を垣間見ることができます。編纂者がこのように中国人の生活を詳細に記録していたことは、その序を記した大学頭の林(はやし)衡(たいら)(林述斎のこと)に強い危機感を抱かせました。当時の日本の武士とその子弟らのことを憂慮したのでしょう。
「清からやって来た船舶の作りに感嘆し、清の地の人々の生活様式を手本とし、優雅な流行の最先端とみなすのは、まことに嘆かわしいものである。かかる酔狂な風潮が本書により助長され、浮ついた風紀に拍車がかかりはしないか。それは作者の意図するところではない」
史実において陳廷敬は晩年、耳の病を理由に故郷へ帰ることを願い出ていることから、私は小説の中で耳が遠くなったことを装って辞職したというフィクションで描きました。古の賢哲(けんてつ)は功をなせば自ら身を退くことを選ぶ者が多く、地位に固執する者は禍を招き、往々にして身を誤るものでありました。陳廷敬は辞職を願い出た後も、再び皇帝から朝政の執務につくよう呼び戻されますが、あくまでも『康熙字典』総撰官のみを務め、孤独に耐えながらその編纂に没頭しました。この字典は、中国古代辞書の集大成であり、収蔵する漢字の数量は、古代中国語辞典の筆頭となるものです。
陳廷敬は一六三九年、明の崇禎十二年に生まれ、一七一二年、清の康熙五十一年に没しています。昔の中国における男性の寿命の計算方法では、陳廷敬の享年は七十四歳となります。孔子曰く、「仁者は寿(いのちなが)し」。また杜甫の詩には「人生七十、古来稀なり」ともいいます。陳廷敬はこの時代、天の加護を受けた仁徳高く、長寿の人だったといえるでしょう。
清の“賢帝”康熙帝を支え、十七世紀を生き抜いた陳廷敬の人生を、日本の読者の皆様に少しでも知っていただければ幸いです。
二〇一六年九月吉日
版元から一言
現代社会を生き抜くサラリーマン必読の書。
中国でミリオンセラーを更新中の書籍がついに日本上陸。
科挙試験の内幕もわかる。
中国では、本書のドラマ化、映画化が進行中。
上記内容は本書刊行時のものです。