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古代の敗戦国日本
大敗戦が招いた支配と干渉・隠された真実をえぐる
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2025年3月24日
- 書店発売日
- 2025年3月28日
- 登録日
- 2025年3月17日
- 最終更新日
- 2025年3月28日
紹介
【歴史作家・吉留路樹の幻の遺稿,30年を経て刊行!】
大敗戦後,この国はどうなったか──
日本は2度大敗戦を経験している。20世紀の対米敗戦,その混乱と変動以上の激動が嵐のように吹き荒れた7世紀半ばにおける対唐敗戦である。最古の正史『日本書紀』は,対唐戦を「白村江の戦い」という一局地の戦闘として叙述することで,戦争そのものの真相を隠蔽し,その後に訪れた唐化政治の実体を闇に葬る一方,文脈中に旧倭国の存在を潜ませて,真実を模索する手掛かりを後世に残した──。
日中韓に遺る史料を照らしあわせ,新史実を明らかにする幻の遺稿。3国の関係が緊迫する今こそ刊行する!
目次
はじめに
第一章 白村江前夜
第二章 海水赤し倭軍潰滅
第三章 近江朝覆滅へ
第四章 「壬申の乱」の真相
第五章 天武政権の実態
第六章 藤原不比等の登場
第七章 律令にも唐の影
第八章 藤橘の奪権闘争
第九章 権力に必要な親唐
第十章 自主独立への道
【跋文】『古代の敗戦国日本』出版に添えて[東アジア研究会代表 岡本啓次]
前書きなど
■「はじめに」より(抜粋)
私たち日本人に即して言えば、原始ハダカ同然の生活にまず朝鮮半島の文物が人とともに渡来した。次いで中国から、そして十六世紀以降にはヨーロッパから、十九世紀には黒船のアメリカから、いずれも変革を伴う文明と文化が海を越えてやって来た。けれども、この日本列島の住民生活に根本的変動をもたらしたのは、第一が七世紀の中国による影響、第二は二十世紀のアメリカによるそれである。
対米敗戦から僅かに半世紀、戦争という傷痕は次第に風化し、あたかもアメリカとは外国にして外国に非ざるような感覚が蔓延しているから、千数百年前の対唐敗戦に至っては全くもってそのカケラも留めないのは当然かもしれないが、自由と民主主義をくれたのが東の戦勝国アメリカであったと同時に、われわれの先祖に文化・文明の基本を授けたのは西の戦勝国唐であった事実、しかも双方とも大敗戦という犠牲を払って得たものであることを忘れてはなるまい。
『日本書紀』は、二十世紀の保守政権と同じく、対唐敗戦とそれによって不可避的となった大唐からの強圧や干渉を押し隠し、日米ならぬ日唐両国の関係を対等なものとして叙述しているが、表面からはともかく文底にはそこかしこに当時の実情を散りばめていて、真実を模索する手掛かりを残している。これは旧倭国の存在を垣間見せた手法と同じく、編纂史官の卓越した力量と執念でもあろう。多少ともこの国の歴史に関心を寄せる者としては、二十世紀の対米敗戦とともに七世紀半ばにおける対唐敗戦は重要なテーマである。
ハテ、そんな大敗戦がもう一つあったのかいな─と思う人びとも少なくないだろうが、事実は事実である。六六三年の「白村江の戦い」というのを思い出していただこう。一九四五年の混乱と変動以上の激動が嵐のように吹き荒れた時代のあったことを、私はこれから書く。 [吉留路樹]
* * *
■ 【跋文】『古代の敗戦国日本』出版に添えてより(抜粋)
本書原稿を著者吉留路樹氏から託された者として、本書の由来を少し書き残します。
路樹氏との出会いは、一九九〇年、中国の青島で新設青島大学が始まるときに募集された初の日本人留学生四名中に、二人が加わったことからでした。氏は生まれてまもなく、父親の仕事の関係で朝鮮の群山(対岸は白村江)を皮切りに、中国の遼陽で学生時代を過ごし、敗戦の年に青島に移り戦争に召集されています。日本統治下の朝鮮で隣人と現地語で分け隔てなく話して共に生き、さらに十五年戦争当時の中国でも、違和感なく現地語で隣人と仲良く遊んだこと、読み書き、さらには隋・唐・宋の歴史書の素読ができていました。この生い立ちが文筆家吉留路樹に至ったと考えています。
留学後、久留米に居を構えられていた吉留路樹氏とは活動を共にする機会が多くなり、その関係は亡くなる九七年まで続きました。帰国後直ぐに、東アジア研究会を立ち上げました。例会では中国文献、『魏志倭人伝』や『宋書』、『隋書』、『旧・新唐書』などの読解、書かれた地名を尋ねて朝倉や太宰府などを散策し、現地の方々を交えての話し合いなどをしてきました。それが九一年に上梓した『倭国ここに在り』に結実したのでした。そして二冊目がこの度出版する『古代の敗戦国日本』です。内容的には白村江の戦いから道真の死までを取り扱った作品であり、吉留路樹氏自身、『倭国ここに在り』とセットであるとの認識で九七年までには書かれています。
私もいろいろな人たちに、七八年から二〇二四年までの半世紀弱の日中交流を語る時、吉留氏との青島大学留学の四十日とその後を抜きにしてはありえないことでした。そしてこの交流が両国の関係の中で一定の有効なエネルギーを発信してきたのも事実だと思います。しかしながら今回の氏が私に託した原稿が二十七年経って出版の縁をいただいたのですが、その長さにこそお付き合いを超えた深い意味があることがこの跋文を書きながら次第に分かってきました。
[東アジア研究会代表 岡本啓次]
上記内容は本書刊行時のものです。