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わたつみの雄・阿曇族
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2021年12月22日
- 書店発売日
- 2022年1月10日
- 登録日
- 2021年12月13日
- 最終更新日
- 2022年1月21日
紹介
建武中元2年(西暦57)、倭奴国王綿積氏は
後漢に奉貢朝賀し、光武帝は印綬を賜った。
即ち「漢は奴国王に委ねる」と──
海神・綿津見命を祖とする阿曇族。履中期の阿曇浜子、百済へ派遣された阿曇比羅夫、天智天皇期の阿曇頬垂など、代々古代史に勇名を馳せた阿曇氏であるが、白村江での大敗を最後に『日本書紀』からその名を消し、志賀島北部の山嶺に沖津宮を築きわたつみ三神を祀った。
史料に残る阿曇族の痕跡を現代までたどる
目次
一 楽浪郡
二 阿曇族
三 卑弥呼
四 壹 與
五 広開土王碑
六 倭の五王の時代
七 磐井の乱
八 白村江──『日本書紀』に見る阿曇氏
九 志賀海神社考
十 風浪宮考
前書きなど
六六三年、大和政権は国防の強化策として設置した防人の基地を志賀島と定めた。これを聞かされた倭の阿曇磯重は悲憤慷慨した。志賀島は、阿曇郷に居残った阿曇族にとって、本貫である。揺るがせにしてはならない。さなきだに、宗像の近海を領海とする海人胸肩氏の台頭は油断にならなかった。阿曇磯重は大宰府政庁に問うた。志賀島の防人の基地化は止めようもなかった。阿曇氏は一つの願望を述べた。
「われらの遠祖わたつみ三柱の祠を本貫の地に設けたい」
「何の為であらせられるか」
「我らが遠祖、奴国を始められしより早、六百余年、これを寿ぎ、わが国を護るためである」
大宰府政庁は納得した。
阿曇磯重は渾身の心を込めて志賀島の北部、勝山の浜辺に対する小島の山嶺に一社を築いた。石段九十七級とある。のちに宮所神さび、木立物ふりて、希秀の山上なりといわれた。沖津宮である。後人はこれを勝馬明神として、本宮の志賀海神社とともに、信仰を篤くした。天安三年(八五九)一月二十七日、志賀海神社は従五位下から従五位上に昇格、元慶四年(八八〇)三月二十二日、賀津万神を正六位上から従五位下に(『三代実録』より)、神名「賀津万」から、摂社・中津宮(勝馬明神)に比定された。また陽成天皇の元慶四年(八八〇)三月二十三日己亥に、筑前国賀津万・正六位上とある。戻されたのであろう。
(「八 白村江─『日本書紀』に見る阿曇氏』より)
上記内容は本書刊行時のものです。