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送別の餃子
中国・都市と農村肖像画
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2021年10月31日
- 書店発売日
- 2021年10月22日
- 登録日
- 2021年9月8日
- 最終更新日
- 2024年1月7日
書評掲載情報
2021-12-04 | 毎日新聞 朝刊 |
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重版情報
3刷 | 出来予定日: 2023-11-30 |
2刷 | 出来予定日: 2022-02-10 |
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3刷目は、恵文社一乗寺店と神田神保町・東方書店の推薦文付きで帯デザインを新装! |
紹介
好評をいただき3刷目を増刷しました!
推薦文付きで帯デザインを新装
【京都・恵文社一乗寺店 韓 千帆】
縁遠い地の含む山気と土の匂い、一個人との交わりで気づき直す生命力
飾り気のない人情味あふれる逞しさ。
ページをめくるたび、すべてが鮮明に浮かびあがってくる。
【神田神保町・東方書店 田原陽介】
激動の改革開放のなかにあって変わらぬ中国の人々。
中国の原風景がここに。素朴で滋味深い中国を味わう一冊。
中国の北方では、人々は別れの時に、手作りの水餃子を囲んでその別れを惜しむという。
自身の研究分野を「民族音楽学」に決めた著者が選んだ調査地は中国の農村。1988年、文化大革命後に「改革開放」へと舵をきった中国で、右も左もわからぬまま「研究」への情熱と未知なる大地へのあこがれだけで、彼女のフィールド調査がはじまった。
中国の都市や農村での調査をきっかけにさまざまな出会いがあった。「怖いものはない」という皮肉屋の作家、強烈な個性で周囲の人々を魅了し野望を果たす劇団座長、黄土高原につかの間の悦楽をもたらす盲目の芸人たち……「親切な人」とか「ずる賢い人」といった一言では表現できない、あまりにも人間臭い人々がここにはいる。それぞれの物語で描かれている風土と生命力あふれる登場人物に心うごかされ、人の心のありようについて考えてみたくなる。
1988年以降の中国という大きな舞台を駆け巡った数十年間には無数の出会いと別れがあった。その中から生まれた14の物語をつづったエッセイを、40以上のイラストとともにお届けします。
ねえ、知ってる?
「送行餃子、迎客麺(ソンシンジャオズ インカーミエン)」といってね、麺は初めて出会ったときに、餃子は送別のときにつくるのよ。
わたしたちがお別れするときも必ず餃子をつくるからね。
―第2章「北京の女人」より
目次
目次
はじめに
序 まだはじまっていないころのお話
Ⅰ 河北省編
第一章 老師的恋
第二章 北京の女人
第三章 ゆりかごの村
第四章 占いか、はたまた芸人か
Ⅱ 黄土高原編
第五章 雨乞いの夏
第六章 村の女たち、男たち
第七章 黄河治水局のおじさん
第八章 尿盆(ニァオペン)
第九章 人生も戯のごとく
Ⅲ 番外編
第一〇章 頑固じいさんと影絵芝居
第一一章 かくも長き一八年
第一二章 パリの台湾人
第一三章 想家(シァンジァー)
第一四章 人を信じよ!
あとがき
参考文献
前書きなど
「はじめに」により 一部要約し掲載
日本では「やさしい」ということばが好まれる。「やさしい人に育ってほしい」、「心やさしい」などと頻繁に使うことばだが、中国語にはこの「やさしい」にあたる単語がない。近いことばとして「親切」、「温和」、「老実」などがあげられるが、いずれも親切、おだやか、誠実といった意味で、やさしい、にぴったり一致しない。
なぜだろうか。
中国ではやさしさという曖昧なものを必要としないからだと思われる。
きびしい気候風土と生存競争のなかで、生きるか死ぬかという局面にさらされてきた人びとにとって、他人にやさしさを求めたり、自分が他者にやさしくしたりする必要はないのだ。ところが、わたし自身、何度も中国で人の温情に触れ、助けられてきた。もし、中国のどこかで本当に困り果てていたなら、すぐに周囲の人が身振り手振りで助けてくれると断言できる。外国人だからといって無視したり、困っているのを放っておいたりすることは絶対ありえない。その理由は一言でいうなら相手が自分と同じ「人」だからだ。同じ国、同じ町の住人という以前に同じ「人」であるという大きな前提がある。その構えの大きさ、おおらかさゆえにわたしのような体力も語学力もない者がこれまで中国に通うことができたのだと思う。
さて、この本のテーマは「中国」ではなく、あくまで「人」である。それもよくありがちな「中国人とは〇〇な人びとである」と一くくりにする中国人論ではなく、わたし自身が中国で出会ったあまたの人びとのなかで、今なお記憶のなかでひときわ光を放ちつづける個々人についての本である。
思い返せば民族音楽学を学ぶ大学院生であった1987年以来、30年以上ものあいだ中国に通い農村や北京、上海などの大都市で短期、長期の滞在をくり返してきた。それらは一過性の旅ではなく、研究のためのフィールドワーク(現地調査)であった。旅とフィールドワーク、どちらにも現地の人との出会いがある。旅の出会いではお互いが相手を気に入らなければ付き合わなくてもよい。しかしフィールドワークでは長期間、かつくり返し訪問するなど交流が長くつづき、またお互いに気に入らない、ギクシャクすると感じても、関係は一定期間つづくことになる。この、相手にとってなかば強制的な関係からして、フィールドワークは対等な関係ではなく、調査する側とされる側の力関係は植民地主義的だと批判されつづけてきた。勝手にやってきて一方的に調査し、一方的に書いて発表する、その行為への批判をフィールドワークは背負っている。
もうひとつ、旅でもフィールドワークでもない出会いとして、ビジネスがある。10万人ともいわれる日本人中国駐在者も現地の人びとと長期にわたり密に接することになる。この場合、ビジネス・パートナーとして目の前にあらわれる相手はある特定の業種や資格をもつ人に限定され利害関係の枠組みをはずすことはできないであろう。
こう考えると、フィールドワークとはなんと牧歌的で無限の可能性を秘めた出会いの場なのかと思う。フィールドワークという通行証をもってすれば、その地について何も知らない赤ん坊のような状態から根気強くありとあらゆることを現地で教えてもらうことも不可能ではない。うまくいけば異文化研究の最強の方法だが、よき時、よき人、よき村やコミュニティにめぐり合うという幸運に恵まれれば、という条件がつく。
さて、フィールドワークで出会った人びとの記憶、それはわたしの場合、30年を経て、薄れるどころか、ますます鮮烈に思い起こされるようになってきた。この10年ほどを上海、それも租界時代というアヘン戦争以来100年間、英仏など西欧列強が支配した時期の資料調査に費やしたことも、かつての農村体験をあらためて見直すきっかけになった。それほどまでにくり返し思い起こされる体験なのにこれまで「人」をテーマに書き、公開したことはほとんどなかった。
なぜ書かなかったのだろうか。その最大の理由としてフィールドワークは手段であり、目的ではない、という答えがある。フィールドワークをおこなう前提となるのが、研究者と現地協力者との信頼関係(ラポール)である。このラポールの構築についてはいわば個々の研究者の「秘技」とされており、文化人類学の「民族誌(エスノグラフィ)」や論文といった成果のなかで記述されることは少ない。フィールドノート(調査地での記録ノート)においても記録対象からはずされるのが、現地の人びととの生々しい関係についてである。書き記すにはあまりに微妙で、感情が絡む事象であるがゆえに無意識、あるいは意識的に記録からはずしてしまうのだ。
われわれがこの種の秘技の片鱗に触れたいと思うなら、フィールドワーカーの「回顧録」や、民族誌の「あとがき」のなかなどで読むことができるかもしれない。一般的には個々の研究者がどのように人びとと関係し、手痛い失敗を重ねながら、徐々に親密な関係になっていくのかということは、知りたいと思ってもなかなか知りえない聖域のように思う。
また、調査実施から一定の時間を置かないと書くことができない、という問題もある。わたしも今になって、1980代、90年代のまだ十分に社会主義的であった中国農村での体験を客観的にとらえ直すことができるようになったと感じている。渦中においては「なぜそのようなことが?」とわけがわからなかったことが今となってはストンと理解できることも多い。
本書では、これまで学術論文や研究書で書くことのなかった、忘れがたい人びととの記憶の一コマ一コマを文章でよみがえらせようとした。だからといって甘い感傷にひたるようなものではなく、失敗だらけの苦い体験のなかにぽっかりと薄日がさすような、そんな記憶だ。
中国で出会った人びとについて書きたいという衝動はじつのところ今から17年前のドイツ滞在時、半年間の研究休暇中にわたしのなかで膨らみはじめていた。
[…]滞在の時間を重ねるにつれ、あることにはた、と気がついた。それは、「ヨーロッパではこの先、どのように滞在年数を重ねたとしても、中国で経験した、人びととの濃密で心揺さぶられるような交流を体験することはないだろう」ということだった。ことばの問題とか、文化的距離とかそういったハードルはあるとしてもそれだけが要因ではない。中国の村々や街で目にした混沌と矛盾、人びとのむき出しの感情、みずからの心の振幅、そういったすべての経験が、ドイツのように人と人が価値観を共有し、法を守り、すべてがきちんと整理された国に身を置くことで、あらためてかけがえのない体験だったと思えてきた。
中国農村での、あるときは身を震わせて怒り、またあるときは涙を滂沱と流した日々。わずか2日にもみたない出会いと別れであったにもかかわらず、今なおその声や表情までもがよみがえるひとりの男……。
それにしても、あらためて1980年代から今までを振り返ったとき、この30年あまりは中国未曾有の変化のときであったと感じる。たとえば、上海。1987年に最初の調査地に選んだのが、上海、蘇州の近郊農村だった。農村は言うに及ばず、上海のメインストリートである南京路でさえ、夜は街灯が数えるほどしかないため暗く、上海のシンボル的建築、和平飯店の前で撮影した写真にはグレーや紺の簡素な洋服を着た老若男女が写っている。1990年代までは日本のほうが先進国と思っていたが、2000年代に入ると上海はみるみるうちに未来都市へと変貌をとげ、あっさりと日本の大都市を追い抜いていった。
そういえば、かつては日本から中国に出かける場合、旅費や滞在費は言うまでもなく自己負担、向こうから人を招聘する場合は全額を日本側が負担するのが暗黙の了解だった。それが今では完全に逆転し、中国から高額の講演料が支払われたり、こちらが旅費込みで招待されたりする状況になっている。昔ながらの経済的優越感をもって中国に出かけるなら、かなりの落ち込みを体験する羽目になる。
農村の変化も都市にひけをとらない。ある村や街の様子を探るべくインターネットで情報を探すと、「これがあの街?」と目を疑うようなビルが林立する写真が出てくる。また通信アプリでどのような奥地の知人とも簡単に連絡をとることができる。かつては村から十数キロ先の郵便局まで出かけ電報を打っていたのに、固定電話という段階を経ずにいきなり電報から携帯電話に移行したのだ。自嘲的に「われわれの村は落後(どうしようもなく遅れている)だ」、と農村幹部が首を振りつつ嘆いていた農村は表面的には過去のものになった。
それでも、そう簡単に変わらないのが「人」なのだ。[…]
版元から一言
この書籍は、中国の食べ物や黄土高原の窰洞(ヤオトン)などの風土、そして研究の対象となった語り物芸能などの描写も見どころですが、特に描かれているものは、「人」そのものです。素朴で、何気ない物語のなかの人物たちは「○○な人」という言葉で表現できない人間臭い、癖のある、生命力に満ちた中国や台湾の人々。著者・井口さんと飾り気のない登場人物との交流からうまれる互いの喜怒哀楽が真っ正直に描かれています。
皮肉屋でも、どこか憎めない魅力をもつ楽亭県の作家、優雅な立ち振る舞いで回りを魅了し、うまくその人達を利用する劇団座長や、黄土高原に住むおだやかな盲目の音楽家などの姿を見ていると、人の心のありようについて考えてみたくなる気がします。
そして、今回はイラストレーター・佐々木優さんの40もの筆力ある線画がこの物語に彩りを与えてくれました。さまざまな風景や人物の表情などが豊かに描かれています。
あとがきには「読者が、中国を自分の眼で見てみようというきっかけになれば…」と記されています。物語の光景を頭に描きながら原稿を読んでいて、ふと我にかえると、違う国を訪れること、人々とふれあうことが「いまはそう簡単にできることじゃないな」と感じます。
国を越えるのにも、人々が互いに顔を突き合わせて話すことも、なかなか難しい状況がずっと続いています。物語の中で描かれた何気ない人と人の会話に、改めて「いま」を思いました。井口さんの体験と想いのつまった出会いと別れの14章はみなさんの心に何を残すのでしょうか。
もともとは「民族音楽学」の研究調査がきっかけで生まれた本ですが、決して専門的な書籍ではなく、エッセイであり人を描いた「文学」でもあると思います。多くの方々に手に取っていただければ幸いです。
上記内容は本書刊行時のものです。