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コロナと精神分析的臨床
「会うこと」の喪失と回復
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2021年3月20日
- 書店発売日
- 2021年3月30日
- 登録日
- 2021年2月2日
- 最終更新日
- 2021年6月14日
書評掲載情報
2021-07-03 |
図書新聞
評者: 山崎孝明 |
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紹介
人は独りでは生きていけません。誰かと共にいて初めて「私」が生まれてくるのが、人間なのかもしれません。ところが困ったことに「簡単には“生身で”会えない」コロナ時代が訪れました。便利なツールでバーチャルに会えますが、オンラインでどのように“心が通う”かという課題が残ります。
この本では、ひたすら「心の出会い」を眼差す精神分析にヒントを得て、物理的に会えない場で“心が通う”可能性を探します。心理支援職・対人援助職、そして「リアルな対話」を求める方々に届けたい、示唆に富む一冊です。
目次
序 章
劇的観点から心を扱うこと――コロナ禍の「どさくさ」に紛れて
第1部 喪失のなかでの心の文脈
○揺れる世界で臨床を続けていくこと
コラム: コロナ禍とユーモア
○失うことと掛け替えのないこと
コラム: オンライン臨床におけるクロスモーダル体験
○オンラインというleap、あるいはdistant psychoanalysis の未来
コラム: コロナ禍における日常生活と心理臨床の経験に関する私的考察
第2部 こころで会うことの回復
○コロナ禍の面接室でクライエントと出会うこと
○コロナ禍におけるグループの無意識
○コロナ禍における「ほど良い治療設定」について考える
終 章
不在の部屋と身体――「映し返し」が起きるところ
問 答
精神分析的に束ねる――三角関係化に向けて
前書きなど
【編者: 荻本 快(おぎもと・かい) から一言】
精神分析的臨床では、クライエント(患者)と臨床家が同じ部屋で会って話し、無意識の領域に向けてこころの探求をおこないます。特に日本においては、人と人が実際に会って、実在の部屋に居るというのが、疑いようもない前提となっていました。それが、今回のコロナ禍において全く変わったのです。
「不要不急」の外出の自粛を要請する政府の緊急事態宣言を受けて、臨床心理士や精神科医、看護師あるいはソーシャルワーカーといった臨床家たちは、コロナ禍のなかで、自分たちが面接を続けることができるのか、あるいは面接をどのような形で続けられるのか、クライエント(患者)と話し合いながら、手探りで進んだといえるでしょう。臨床家とクライエントは、自分たちが続けてきたことは不要不急のものだったのか、そして自己にとってあるいは人間にとって「会うこと」とは何なのかを、根底から見つめ直さざるを得ない状況に投げ込まれたのです。
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こうした状況のなか、新型コロナウイルスの第二波の直前の8月10日に、私たちは、この本の元となるシンポジウム《コロナと精神分析的臨床―距離、オンライン、会うこと》を開催しました。オンラインでおこなわれたこの学術集会は、結果的に、日本で初めて大規模にそのテーマについて検討した会となり、多くの臨床家の参加がありました。さまざまな実践例を通して、コロナ禍における精神分析的な臨床とは何なのか、どうあるべきかを考える発表が続き、実践上の留意点から、臨床の前提となる人間観まで、幅広く濃密な議論が展開し、議論は自然と、人間にとって「会うこと」とは何なのか、オンラインでつながることが人間の発達にどのような影響を及ぼすのか、といった問題へと収束していったのです。
本書は、コロナ禍における精神分析的な臨床とは何なのか、どうあるべきかを考えていくだけでなく、人間にとって重層的に「あうこと」とは何かを問い直すことを目的としています。すべての臨床がそうであるように、私たちは、この状況において安易に答えを出そうとはせず、思考を続けていくことが、コロナ禍において「あうこと」を重層的に取り戻すことにつながっていくのではないかと思っています。
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こんにち、特に日本において、誰かと会って話をするということに、明示的にも暗示的にも、新型コロナウイルスをやりとりすることが加わったと言えます。私たちは、自分が感染しているかもしれない、相手が感染しているかもしれないという可能性を捨てきれないまま、相手に会っています。治療関係のなかに毒がある、致死的なものがある、破壊的なものがある、こういったことこそ、精神分析が長い歴史のなかで見つめてきたものだと思います。コロナ禍における精神分析的な臨床の意味が、新たに見いだされるのではないでしょうか。
この本が、次の「波」に襲われたときに私たちの思考が泥沼化しないよう、こころの臨床に携わる皆様の思索の助けになればと願っています。そして、臨床家だけでなく、人と会うことを生業にしている職業人・専門家の方々と共に、コロナ禍において「あうこと」の根源的な意味について深く思考する契機となれば、編者としてはこれ以上ない喜びです。
版元から一言
【編者: 北山 修(きたやまおさむ) から一言】
今これは旅先だと思うんだよね。
実生活とか日常とかノーマルとかっていうことが原点で、そこから今は放り出されてしまって、心は浮遊しているわけだよね。勝ってるのか負けてるのか、退却すべきか進むべきか、あるいはLockdownかGo To Travelかみたいな、そのあいだでふらふらしている。浮遊感がすごくあるんだけど、これは「プラットフォーム」を失った“旅先”感覚だと思うんですよね。
旅先での出来事なので、旅先の“浮いた”感覚を自覚して話すべきだと思うし、落ち着きのないこの状態で新しい国の言葉を作り出すのはまだ早い状態だと思うんですよね。New Normal、withコロナなんてことを言っているけど、ワクチンがうまくいけば、withoutコロナになるかもしれないんですよね。今は不確実な状態です。
にもかかわらず、逆に古い言葉で捉え直して、それを新しい文化としてこれからも継続するありようとして捉えるのは、私にはできない。今は旅の途中であって、やがて振り返ると良かったか悪かったか決定されるような話じゃないですか。だから、今こそ“分かれ目”なのかもしれないのです。
そうすると、「現在をとらえる確かさ」って何にあるのかっていうと、やはりそれは〈内的構造〉ということになると思うんだよ。心のなかに構造があるっていうか、心のなかに設定があるということ。「外」の設定が動くときには、心の「なか」に我々がどのような設定を持っているのかが問われる、ということじゃないですか。そうすると、現状としては、外の設定が動いているので、私たちの心で構造化している部分に頼らなければならない、あるいは〝心の地図〞を辿らねばならない状況だと思うんだけど。
そこで、いちばん信じられる〈内的構造〉化の手掛かりは、「知」と「情」と「私」です。精神分析をやっていてよかったなと思うのは、お父さんとお母さんと子ども、超自我と自我とエスとか、あるいは衝動と防衛と不安、私たちは三点を巡って心が構造化されていると教えてくれたことです。
これから行きたいところ(エス)と、それについて不安を伴うことをメッセージとして感じる(超自我)、そしてそれをどう生きるかという〈私〉(自我)この三つを束ねることで、私は心を合成している。「行きたいところ」っていうのは、この本の主題の“あいたい”の向かうところで、そこは究極の「密」な場所。行ってはいけないというのは「コロナ」あるいは「防疫」や、感染してはいけないという要請。であるとすれば、それを〈私〉がどう生きるか。
同調圧力のなかでもっとも無意識化されやすいのが、〈私〉つまり自我だと思うんです。周囲は「自分勝手は許されない」とか言うんだけど、でも、「どこ行きの切符に乗るのか、船に乗るのか、列車に乗るのかっていう最後の選択は〈私〉にあるんだ」っていう可能性を、内側に秘めた思いとして持っていないと、どこかに連れていかれてしまう。同調圧力に乗せられてしまうということがあると思いますよ。
関連リンク
https://www.youtube.com/watch?v=riFGZATDEWg
きたやまWebinar(主催:木立の文庫)
緊急企画《コロナと日本人の心》アーカイヴ
https://kodachino.co.jp/webinar/kitayama-webinar-special1/kw-s/
上記内容は本書刊行時のものです。