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私のエッジから観ている風景 金村 詩恩(著) - ぶなのもり
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私のエッジから観ている風景 (ワタシノエッジカラミテイルフウケイ) 日本籍で、在日コリアンで (ニホンセキデ ザイニチコリアンデ)

社会一般
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発行:ぶなのもり
四六判
190ページ
並製
価格 1,500円+税
ISBN
978-4-907873-03-5   COPY
ISBN 13
9784907873035   COPY
ISBN 10h
4-907873-03-4   COPY
ISBN 10
4907873034   COPY
出版者記号
907873   COPY
Cコード
C0095  
0:一般 0:単行本 95:日本文学、評論、随筆、その他
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2017年12月
書店発売日
登録日
2017年12月6日
最終更新日
2019年2月7日
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紹介

帰化は小学1年生のとき。当時の夢は警察官になること。おばあちゃん子で育った25歳の日本籍在日コリアン3世が綴る自分や家族の日常と日本社会の交わる風景。

おいしいキムチやチャンジャにはしゃぎ、デマサイトやヘイトスピーチに憤り、沖縄や蓮舫議員や成宮寛貴に共感したり反発したり、朝鮮半島の歴史や現在のありように思いをはせる日々。

多様性や寛容さが失われつつあるこの国のもうひとつの声。同タイトルの人気ブログを大幅に加筆修正して書籍化しました。

目次

はじめに―「マンナソ パンガプスンミダ」なんて知らないや

キムチの季節に
・「土人」はいつも猿轡をされる
・日常の中にある問題と路上に出る問題
・「何かのため」に生きなきゃいけない時代に
・大統領のどこに問題があるのか
・「中心」にひっかかる私
・デモの現場から教室を経由して祭祀の現場を見る
・「暴露される」恐怖
・神様を信じている人の日常
・「野蛮」の中で「野蛮」を見つける

トックの季節に
・こんなときに求められること
・リビングとクラスTシャツと生活保護
・拝啓 デマサイトを管理していた人へ
・やっぱりチャンジャが好き
・独裁者の血から見えるもの
・言葉を越える
・死者を生かす言葉
・今、震災と向き合う

キンパの季節に
・四月三日
・ボールが描く虹色の夢
・Tシャツを脱がせたのは誰だろう
・天皇の言葉を借りて「民主主義」を語る
・『セデック・バレ』と蓮舫さんと私と
・歴史が色を持つ時
・「文化」が作られる場所
・「憲法」が「拳法」になるとき
・君たちはキムチを食べたことがあるか
・これからの焼肉の話をしよう
・車椅子と出会った日
・シマと島のフットボール

参鶏湯の季節に
・柳に今を尋ねる
・蓮舫よ。ここで戦わなくてどうする
・私は弾劾する
・張本さんを思い出す日
・八月十五日を語り継ぐ
・君たちは『火山島』を読んだのか
・私の『満月の夕』
・関東大震災後の虐殺事件で犠牲になった全ての方々へ
・「政治の季節」の忘れ物
・私も難民になっていたかもしれない

アワビ粥の季節に
・「オッパ」って言われること
・文化は境界線を超えて
・民主主義ってなんだ?
・棄権なんて私にはできないよ
・痛ければ声を出して良いのさ

あとがきにかえて―名前をめぐる冒険―

前書きなど

はじめに―「マンナソ パンガプスンミダ」なんて知らないや

 韓国語は厄介な言語だと思う。
 「はじめまして」という言葉にいくつも種類があるのだから。
 目上の人には「チョウム ペケッスンミダ」というらしいし、柔らかい感じで言いたいときは「アンニョンハシムニカ」というらしいし、「マンナソ ヨンガンイムニダ」というときもあるらしい。
 私は韓国人だけれども、この言葉の使い分けを知らない。
 どうやらこういうきちんとした挨拶をするときには「マンナソ パンガプスンミダ」というらしい。

 私は小さい頃から、違和感を感じながら生活していた。なんでだかわからないけれども、家では祖母二人は韓国語をしゃべっていたし、母方の祖母が語るのは韓国の話ばっかりで、日本の話をしてくれたことがなかった。日本の話を聞いても「その時はソウルに居たの」という。
 そのくせ、外に行けば日本式の生活をしているように見せかけていた。家のなかで伯母さんのことは「コモ」と呼んでいるのに、外に出ると「おばさん」と呼んでいた。小学校のとき、グループ研究でおばあちゃんから聞いた戦争の話を発表することになったが、「おばあちゃんから話を聞けなかった」と言ってごまかした。自分の両親がどこの出身なのかということを調べる総合学習があって、他の子たちが埼玉以外に田舎があるという話を、うらやましいと思いながら聞いていた。
 一度、小学校の時に、私が「在日」だということを言ったことがあった。周りの同級生たちは「ポカーン」としていた。いまから思えば何のことかわからなかったのだろう。
 だけれども、これを知った両親にものすごく怒られた。
 「どうしてそんな余計なことを言うんだ!」
 私はただ、自分の家のことを素直に話しただけなのに、なんで怒られるのかがわからなかった。
 その意味を知るようになるのは高校生から大学生の時ぐらいだろうか。自分のことを「在日だ」と言ったときに、ヘンな視線を浴びせてくる人たちに出会ったことがきっかけだった。彼らはなんだか見たくないものを見てしまったように私を見てくる。そして、「そういうことを言ってどうしたいの?」と言ってくる。別に「どうしたい」ということはない。「私は私です」って言いたいだけだ。
 そんな人たちとはまた別に、私が「在日だ」というと、熱烈に歓迎する人たちにも出会った。その人たちは何か期待するような視線を浴びせてくる。なぜか私に向かってやたら韓国語で話しかけてくるし、「在日の人ってこうですよねぇ」とか言ってくる。
 私は日本の学校にずっと通っていたし、日本語しかしゃべれないし、「祖国のために」生きようとも思わない。
 こんなことを言うと、期待する視線が一気に冷めた目線になっていく。挙句の果てには「君は在日らしくない」「君みたいな人はもっと在日について勉強すべきだ」と言いはじめる。「私は私です」と言いたいだけなのに。

 こんな光景を見たことがある。
 「在日」だっていう人たちが日本人に向かって一生懸命、韓国語で挨拶をしていた。それが自分が誰なのかを示すためのやりかただったのかもしれないが、日常的に韓国語なんて使わない人だから、私には違和感のある光景だった。
 私は私の使っている言葉で話したい。誰かが与えてくれた言葉を何も考えずに、飲み込んで、自分の言葉として吐き出すなんてできない。
 自己紹介のとき、私はこんな挨拶をするだろう。
 「はじめまして。私の名前は金村詩恩です」

 「マンナソ パンガプスンミダ」なんて言葉は知らないや。

上記内容は本書刊行時のものです。