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女になれない職業
いかにして300本超の映画を監督・制作したか。
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 書店発売日
- 2022年9月22日
- 登録日
- 2022年6月21日
- 最終更新日
- 2022年9月16日
書評掲載情報
2022-12-04 | 読売新聞 朝刊 |
2022-10-01 | 朝日新聞 朝刊 |
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紹介
男社会に挑んだ映画監督・浜野佐知の人生をかけた戦記!
渾身の12万字に監督作品リスト、多数の記録写真を収録し堂々刊行。
―――――
ピンク映画から一般映画に転身した男性監督の多くは二度とピンク映画に戻って来ない。だが、私はこの第一作が評価されてもピンク映画を撮り続けた。それが私の「職業」だったからだ。
そして、私の撮るべきテーマは、ピンク映画だろうと一般映画だろうと変わりはなかった。
「女の性を女の手に取り戻す」
これが私の映画人生をかけたテーマだった。(序章より)
目次
序章
1章 ふたつの原風景
2章 ピンク映画へ
3章 自分の会社を作る
4章 母の死
5章 『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』
6章 『百合祭』
7章 『こほろぎ嬢』
8章 『百合子、ダスヴィダーニヤ』
9章 女性がピンク映画を観る、ということ
10章 『BODY TROUBLE』
11章 転機
12章 『雪子さんの足音』
終章 アナザーストーリー
資料編
浜野佐知フィルモグラフィー
『百合祭』映画祭&上映会リスト
前書きなど
序章
あるインタビューで「あなたにとって、映画とは何ですか?」と問われた。 カメラの前で、一瞬何を聞かれているかわからなかった私は、「職業ですけど」と答えて、相手をひどく失望させてしまった。期待されたのは、映画への夢やロマンを情熱的に語る言葉だったのだろう。しかし、 19歳でピンク映画の現場に飛び込み、23歳で監督となり、30代で映画制作会社を立ち上げた私にとって、映画はプロとして食っていく現実その ものだった。
私は、1971年からピンク映画の監督として生きて来た。かつて日本映画界の大手5社体制からはみ出した独立プロが、超低予算でエロとセックスを売り物にしたのがピンク映画だ。女である私がどうしてそんな映画の業界に飛び込んだかというと、それ以外に映画の監督になる道が全く閉ざされていたからだ。大手5社の演出部の就職条件は「大卒・男子」だった。ドキュメンタリーの分野には女性監督が何人か存在したが、地味で儲からないと男たちが手放した分野だった。
主流である劇映画に女の監督は存在しなかった。田中絹代のように有名な女優が巨匠たちの助けを借りて監督になる例はあったが、 助監督修業から叩き上げて監督になった女は私が初めてだろう。
だが、ピンク映画の現場に入った私を待っていたのは、日々当たり前のように襲いかかってくるセクハラやパワハラだった。ハラスメントという言葉もなかった時代だ。女優以外に女のいない現場で、私は男優やスタッフたちにとって気軽にちょっかいを出せるオモチャのようなものだったのだろう。だが、これは自分で選んだ道だ。どれほどつらくても、ここから逃げるわけにはいかない。
35ミリフィルムで撮影する時代で、演出部に限らず、撮影部、照明部など、いずれも厳しい技術的な訓練を受ける徒弟制度をくぐり抜けなければならない。どのパートにも女は存在しなかった。
私は男たちとの戦いを決意した。何が何でも監督になる。誰も歩かなかった道を歩く。私はサングラスをかけた。涙は見せない。これが私の戦闘服だ。(後略)
版元から一言
吉行和子さん(俳優)推薦!
「撮影現場は正直な風がびゅんびゅん吹いていて、なんて気持ちがいいのだろうと感激しました。こんな女性の監督がいたんだ、と、驚きました。」
上記内容は本書刊行時のものです。