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何も共有していない者たちの共同体
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2006年2月
- 書店発売日
- 2006年2月1日
- 登録日
- 2015年3月5日
- 最終更新日
- 2025年2月17日
重版情報
5刷 | 出来予定日: 2016-08-04 |
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紹介
すべての「クズ共」のために
どこから来たかではない
なにができるかでもない
私たちと何も共有するもののない――人種的つながりも、言語も、宗教も、経済的な利害関係もない――人びとの死が、私たちと関係しているのではないか?
何かが一人の官能の共犯者から
別の共犯者へと伝わる。
何かが理解されたのである。
共犯者の間で使われるパスワードが
認識されたのだ。
あなたを同じ仲間の
一人の共犯者に仕立てる何かが
語られたのだ。
ケツァール鳥、野蛮人、原住民、
ゲリラ、遊牧民、モンゴル人、アステカ人、
スフィンクスの。
「侵入者」では、他者性――私たちと対面するときに、私たちに訴えかけ、私たちに異議を申し立ててくるもの――の輪郭を描いている。
「顔、偶像、フェティッシュ」では、真の価値はなぜ、私たちが共有しているものではなくて、個々人を個別化し、彼または彼女を互いに他者にするものの方にあるのかを説明する。
「世界のざわめき」が示そうとしているのは、言語とはたんに、私たちの経験を同等で交換可能なものとして扱えるように平準化する、人間の約束によって制定された一つのコードではなく、むしろ、自然のざわめき――動物の、最終的には、存在し反響するすべての物のざわめき――から生じるものと考えられるべきだ、ということである。言語というコードを鳴り響かせるとき、私たちは、人間の解読者とだけではなく、自然界が奏でる歌、不平、雑音とも意思を疎通させているのである。
「対面する根源的なもの」では、語られる内容よりも、私がその場に存在して語ることの方が本質的となるような状況を検討する。
「腐肉の身体・腐肉の発話」は、ある特殊な言語状況で生まれる拷問を扱っている。その犠牲者は、彼または彼女が語り、信じたことのすべてが嘘であり、自分は真実を語ることができないと無理矢理に自白させられてしまう。
最後に、「死の共同体」は、人が死にゆく人と形づくる共同体を考察している。
目次
もう一つ別の共同体
侵入者
顔、偶像、フェティッシュ
世界のざわめき
対面する根源的なもの
腐肉の身体・腐肉の発話
死の共同体
原註
解説1[田崎英明]
解説2[堀田義太郎]
訳者あとがき[野谷啓二]
前書きなど
※ 本書の冒頭 11-13頁からの引用
共同体とは普通、何かを、たとえば言語やものの見方や考え方を、共有している人びとが形づくっているものだと考えられている。また、一つの民族、都市、制度といったものを共に作っている集団によって形づくられると思われている。けれども私は、すべてを残して去っていく者、すなわち、死にゆく人びとのことを考え始めた。死は一人ひとりの人間に一つひとつ別のかたちで訪れる、人は孤独のなかで死んでいく、とハイデガーは言った。しかし、私は病院で、生きている人が死にゆく人の傍に付き添うことの必然性について、何時間も考えさせられた。この必然性は、医師や看護師、つまり、できることをすべて行なうためにそこに居る人びとだけのものではない。死にゆく人に最後まで付き添おうとする人、打つ手が何もなくなったのに居つづける人、自分がそこに居つづけないわけにはいかないと切実に感じている人にとっての必然性でもある。それは、この世で最も辛いことではあるが、人はそうすべきだとわかっている。死にゆく人が人生を一緒に生きてきた親や恋人だから、という理由だけではない。人は、隣のベッドで、あるいは隣の病室で、まったく知らない人が孤独に死につつあるときにも、そこに居つづけようとするのだ。
これはたんに、一人ひとりの人間のモラルを問う決定的瞬間という意味しかないのだろうか? 私は、病院であれ貧民街であれ、孤独に死にゆく人を見捨てるような社会は、みずからその土台を根こそぎにしているのだと考えるようになった。
私たちと何も共有するもののない――人種的つながりも、言語も、宗教も、経済的な利害関係もない――人びとの死が、私たちと関係している。この確信が、今日、多くの人びとのなかに、ますます明らかなかたちで広がりつつあるのではないだろうか?
私たちはおぼろげながら感じているのだ。私たちの世代は、つきつめれば、カンボジアやソマリアの人びと、そして私たち自身の都市の路上で生活する、社会から追放された人びとを見捨てることによって、今まさに審判を受けているのだ、と。
こうした考察から私が理解したのは、他者のなかにあって私たちに関係するものとは、まさに彼または彼女の他者性――私たちと対面するときに、私たちに訴えかけ、私たちに異議を申し立ててくるもの――にほかならない、ということである。「侵入者」は、この他者性の輪郭を描こうとするエッセイである。「顔、偶像、フェティッシュ」では、真の価値はなぜ、私たちが共有しているものではなくて、個々人を個別化し、彼または彼女を互いに他者にするものの方にあるのかを説明する。「世界のざわめき」が示そうとしているのは、言語とはたんに、私たちの経験を同等で交換可能なものとして扱えるように平準化する、人間の約束によって制定された一つのコードではなく、むしろ、自然のざわめき――動物の、最終的には、存在し反響するすべての物のざわめき――から生じるものと考えられるべきだ、ということである。言語というコードを鳴り響かせるとき、私たちは、人間の解読者とだけではなく、自然界が奏でる歌、不平、雑音とも意思を疎通させるのだ。「対面する根源的なもの」では、語られる内容よりも、私がその場に存在して語ることの方が本質的となるような状況を検討する。「腐肉の身体・腐肉の発話」は、ある特殊な言語状況で生まれる拷問を扱っている。その犠牲者は、彼または彼女が語り、信じたことのすべてが嘘であり、自分は真実を語ることができないと無理矢理に自白させられてしまう。最後に、「死の共同体」は、人が死にゆく人と形づくる共同体を考察している。
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版元から一言
アルフォンソ・リンギスの著作と思想については、洛北出版のwebサイトの「web contents」という特集ページを、ご覧くださいませ。より詳しい紹介がなされています。
第1章「もう一つ別の共同体」は、全体を要約したページともいえますので、いちばん最後にこの章をお読みいただけますと、読みやすくなると思います。(担当の編集より)
追記
◆ 「東京新聞」2006年2月26日朝刊 平井玄氏による書評
◆ 「西日本新聞」2006年3月12日朝刊 平井玄氏による同書評
◆ 「週刊 読書人」2006年3月24日号 長原豊氏による書評
◆ 「図書新聞」2006年4月8日号 加藤恵介氏による書評
◆ 「書 標」2006年3月号 書評掲載
◆ 「読売新聞」2006年4月30日朝刊 林道郎氏による書評
上記内容は本書刊行時のものです。