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『日本書紀』に学ぶ 荊木 美行(著) - 燃焼社
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『日本書紀』に学ぶ (ニホンショキニマナブ)

歴史・地理
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発行:燃焼社
A5判
縦210mm 横150mm 厚さ20mm
重さ 450g
250ページ
並製
価格 2,800円+税
ISBN
978-4-88978-142-7   COPY
ISBN 13
9784889781427   COPY
ISBN 10h
4-88978-142-0   COPY
ISBN 10
4889781420   COPY
出版者記号
88978   COPY
Cコード
C3021  
3:専門 0:単行本 21:日本歴史
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2020年3月20日
書店発売日
登録日
2020年2月12日
最終更新日
2020年8月26日
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紹介

『日本書紀』は『古事記』とともに、日本を代表する古典である。養老4年(720)に舎人親王が時の元正天皇に献上したことが記録に残る。だから、令和2年(2020)は同書が完成したから、ちょうど1300年の節目の年である。本書は、これを記念した企画で、古代史研究者の第一線で活躍する著者が『日本書紀』の魅力に迫る。本書は、総論・各論・附篇から構成されるが、総論では、『日本書紀』はいつ誰がなんの目的で編纂したのかを考え、併せて、消えた「系図一巻」と「別巻」の謎を取り上げる。また、各論では、『日本書紀』の内容を平易に解説し、古代史料としての『日本書紀』の価値をのべる。附篇は、関連論文と資料から成るが、巻末の『日本書紀』テキストと注釈書のリストは、初学者にも有益である。『日本書紀』を読むひとは多いが、それがどんな書物であるかを知らないまま利用しているひとが少なくない。本書を繙くことによって、『日本書紀』とはなにかという基本的な知識が得られるであろう。

目次

第Ⅰ篇 総 論 ………………………………………………………………………………………………………………13
第一章 『日本書紀』の成立………………………………………………………………………………………………15
第二章 帝王系図と古代王権―『日本紀』の「系図一巻」をめぐって―……………………………………………29
第三章 『日本書紀』の元史料―大草香皇子事件をめぐって―………………………………………………………42
〔附論〕「別巻」とはなにか ……………………………………………………………………………………………55
第Ⅱ篇 各 論 ………………………………………………………………………………………………………………69
第一章 神代巻から皇代記へ ……………………………………………………………………………………………71
一、スサノヲノミコト……………………………………………………………………………………………………71
二、神武天皇(神日本磐余彦命)………………………………………………………………………………………81
第二章 王統譜を読む ……………………………………………………………………………………………………87
一、ヤマトタケルノミコト………………………………………………………………………………………………87
二、応神天皇………………………………………………………………………………………………………………92
三、仁徳天皇………………………………………………………………………………………………………………96
四、磐之媛・八田皇女……………………………………………………………………………………………………98
五、履中天皇・反正天皇…………………………………………………………………………………………………102
六、允恭天皇・安康天皇…………………………………………………………………………………………………104
七、雄略天皇………………………………………………………………………………………………………………107
八、清寧天皇………………………………………………………………………………………………………………109
九、顕宗天皇・仁賢天皇…………………………………………………………………………………………………110
十、武烈天皇………………………………………………………………………………………………………………118
十一、継体天皇……………………………………………………………………………………………………………126
十二、安閑天皇・宣化天皇………………………………………………………………………………………………129
十三、欽明天皇・敏達天皇………………………………………………………………………………………………131
十四、用明天皇・崇峻天皇………………………………………………………………………………………………135
十五、聖徳太子……………………………………………………………………………………………………………138
〔附論〕聖徳太子墓と磯長叡福寺………………………………………………………………………………147
十六、蘇我入鹿と中大兄皇子……………………………………………………………………………………………151
十七、壬申の乱と天武天皇………………………………………………………………………………………………158

附 篇…………………………………………………………………………………………………………………………167
第一章 四道将軍伝承の虚と実…………………………………………………………………………………………169
はじめに―四道将軍伝承とは―………………………………………………………………………………………169
一、大彦命・武渟川別の派遣について………………………………………………………………………………171
二、丹波道主命の系譜…………………………………………………………………………………………………175
三、「丹波道主命」「吉備津彦」への疑問 …………………………………………………………………………180
四、ヤマト政権と丹波…………………………………………………………………………………………………183
五、吉備派遣について…………………………………………………………………………………………………186
おわりに…………………………………………………………………………………………………………………190
第二章 ヤマト政権の地方支配―屯倉に関する研究動向―…………………………………………………………197
第三章 『日本書紀』と難波宮…………………………………………………………………………………………212
第四章 『日本書紀』のテキストと注釈書―明治以降を中心に―…………………………………………………219
跋……………………………………………………………………………………………………………………………240
索引

前書きなど

『日本書紀』の成立 本書で取り上げている『日本書紀』は、ほぼ同時代に完成した『古事記』とともに、日本人にとってはかけがえのない古典である。われわれは、この書を通して、自分たちの祖先が、日本という国の誕生や発展をどのようにとらえていたかを知ることができるのである。
『日本書紀』は、わが国初の勅撰歴史書で、その後『日(に)本(ほん)三(さん)代(だい)実(じつ)録(ろく)』まで継続して編纂された六(りっ)国(こく)史(し)の第一である。その完成・奏上については、『続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』養老四年(七二〇)五月条に「是(これ)より先、一品舎人親王(とねりのしんのう)、勅を奉(う)けたまはりて日本紀を修(あ)む。是に至りて功成りて奏上す。紀卅巻・系図一巻なり」と明記されており、完成の年次や当時の編輯総裁については問題がない。ただ、いつ誰が編輯に着手し、いかなる手順を経て完成したのかは、不明な点が多い。これは、ひとえに撰上時の上表が残っていないことによる。
編纂の開始は、川嶋皇子以下十二名に、帝紀及び上古の諸事を記定せよと命じた天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)十年(六八二)の詔(みことのり)にもとめるのが通説だが、いっぽうで、和銅七年(七一四)二月の、紀(きの)清人(きよひと)と三宅(みやけの)藤(ふじ)麻呂(まろ)に詔して国史を撰ばせたという『続紀』の記事をもってその着手とするみかたもある。同条は、ふつう、完成を急ぐための梃入れ人事とみられていたが、そうではないとするのがこの説である。
たしかに、天武天皇十年三月を起点とすると、完成までに三十九年もの歳月を要したことになる。しかし、作業の開始が和銅七年二月だとすると、完成までの期間は約六年、それほど不自然とは云えない。しかも、直前の和銅五年には『古事記』が完成しているから、同書の不備を克服するために、新たな歴史書の編纂が思い立たれたのだとすると、両者の関係もうまく解釈できる。
 ただ、和銅七年説では説明できないこともいくつかある。一つには、『日本書紀』が、「何某氏の祖」と書く場合の氏の姓(かばね)を八色(やくさ)の姓(かばね)(天武天皇十二年制定)以前のもので記す点である。これは、編纂の開始を和銅七年とする説では説明がむつかしく、事業の始動を天武天皇十年とすることによって、はじめて理解できることがらである。
また、つぎのような事例もある。安(あん)康(こう)天(てん)皇(のう)紀元年二月条には、天皇によって殺害された大(おお)草(くさ)香(かの)皇(み)子(こ)に仕えていた難(なに)波(わの)吉(き)師(し)日(ひ)香(か)蚊(か)父子が、皇子の遺(い)骸(がい)の傍らで殉死した話が載せられている。忠臣日香蚊を称えるエピソードだが、こうした所伝が採用されているのは、日香蚊の子孫の難(なに)波(なの)大(おお)形(かた)が天武天皇朝の記定事業のメンバーの一人だったからだと考えられる。大形は、編輯会議の席上、自家の家記を持ち出し、日香蚊=忠臣説を強く推したのであろうが、これなども、天武天皇十年の詔が『日本書紀』編纂を指示したものであることの証しである。
 さて、こうしてみていくと、天武天皇の時代に『日本書紀』の編纂が始まったとする説はまず動かないと思うのだが、なお解決できない問題もある。それは、おなじく天武天皇朝に企劃された『古事記』との関係である。
『古事記』は、その序文によれば、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)という舎人(とねり)を使って編纂を始めたものだという。天皇は、諸家の帝紀と旧辞が真実と異なり、偽りを多く加えていることを憂えていた。そして、「故(かれ)、惟(こ)れ帝紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽を削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)」って、その定本の編纂に着手したのである。
 しかし、この作業は、天皇の存命中には完成しなかった。元明天皇の時代になって(持統・文武天皇の時代のことは、序文にとくに記載がないので不明とするほかない)、あらためて天皇が太(おおの)安(やす)萬(ま)侶(ろ)に命じて、阿礼の読んだ旧辞を「撰録」させたのが、現存の『古事記』である。序文には、和銅五年正月に至って献上されたとある。
 こうした編纂の経緯を一(いち)瞥(べつ)しただけでも、『古事記』が『日本書紀』とかかわりの深い書物であることがわかるのだが、では、着手の先後や両者の関係はどうかと云うと、杳(よう)として知れない点が多い。ここに、記紀研究のむつかしさがある。
編者は誰なのか 編纂に携わった人々の名もすべては把握できない。確実なのは、最終段階における編輯総裁が舎人親王であったこと、和銅七年に紀清人と三宅藤麻呂がスタッフに加わったという二点だけである。
もっとも、天武天皇十年の詔が『日本書紀』に関するものだとすると、ここに名を連ねる川嶋・忍壁(刑部)二皇子と広瀬・竹田・桑田・三野の四王、それに前述の難波大形をはじめとする上(かみつ)毛(け)野(のの)三(み)千(ち)・忌(いん)部(べの)首(おびと)・阿(あ)曇(づみの)稲(いな)敷(しき)・中(なか)臣(とみの)大(おお)嶋(しま)・平(へ)群(ぐりの)子(こ)首(おびと)らが編者であったことになる。
ただ、老齢や死亡を理由に途中でこの事業から離れたひともあっただろうし、完成までにはメンバーの交替も少なくなかったと考えられる。坂本太郎氏は、大宝律令の編纂にかかわった藤(ふじ)原(わらの)不(ふ)比(ひ)等(と)・下(しもつ)毛(け)野(のの)古(こ)麻(ま)呂(ろ)・伊(い)吉(きの)博(はか)徳(とこ)・伊(い)余(よ)部(べの)馬(うま)養(かい)についても、「これらの中には書紀の撰修にあずかってもおかしくない人がある」と推測しておられる。さらに、加藤謙吉氏は、養老五年に紀清人とともに表彰された文(もの)章(じょう)博(はか)士(せ)の山(やま)田(だの)三(み)方(かた)・下毛野古麻呂・楽(さざ)浪(なみの)河(かわ)内(ち)を『日本書紀』編者にあてるとともに、彼らの多くが藤原不比等と接点をもっていたことを指摘される。
ところで、『日本書紀』の編者について重要な提説をされたのが、森(もり)博(ひろ)達(みち)氏である。氏は、『日本書紀』三十巻に用いられている漢文の用法から、α群(巻十四~二十一、二十四~二十七)とβ群(巻一~十三、二十二・二十三、二十八・二十九)に分類された(巻三十はべつ)。そして、α群はおおむね正確な漢文で書かれているのに対し、β群には倭習(漢文の誤用、奇用)が多くみられることから、α群は渡来人、β群は日本人の執筆であるとして、前者では薩(さつ)弘(こう)格(かく)・続(しょく)守(しゅ)言(げん)、後者では山田三方をその候補としておられる。
森氏の研究は、各巻の性格や成立順序から編者を類推しようとした意慾作だが、はたして、このようなわずかな人数で、厖大な『日本書紀』をまとめることができたであろうか。この点に一抹の不安が残る。さらに、α群・β群という区分についても、森氏の現行区分では、巻第一から十三までは、本文・歌謡・訓注を通じてβ群だが、亀山泰司氏によれば、巻第二の訓注はα群であり、また、巻第十一も、歌謡をふくむ本文がβ群で、訓注はα群だという。亀山氏の指摘のとおりだとすると、かならずしも森氏のような単純な分類は成立しない。むしろ、α群の、假名で施された後次加注は、『日本書紀』の複雑な編纂過程を示唆するかのようである。森氏の研究は、『日本書紀』の音韻論・文章論としては貴重だが、編者の推定に関しては、さらなる検証が需(もと)められる。
「系図」と「別巻」 ところで、さきにもふれたように、『日本書紀』には、ほぼ全部が伝存している本文とはべつに、「系図一巻」が存在した。この系図については、弘仁三年(八一二)の年紀を有(も)つ『弘(こう)仁(にん)私(し)記(き)』の序にも、
清足姫((元正))天皇の負扆の時、(分註略)親王及び安麻呂等、更に此(こ)の日本書紀三十巻并びに帝王系図一巻を撰ぶ。今、図書寮及び民間に見在す。
 と記されている。ここで、「系図一巻」が「帝王系図一巻」と言い換えられているところをみると、この系図は、天皇を中心とする皇室系図であったことがわかる。
 ただし、薗田香融氏によれば、記載事項はそれにとどまるものでなく、必要に応じて四世、五世の孫に及び、さらには皇(こう)別(べつ)氏族(しぞく)(天皇の皇子皇女を始祖とする氏族)を説明した「始祖分注」もふくんでいたという。また、ほかにも、歴代天皇の宮都・崩年・宝算・山陵や、治世のおもな出来事といった、帝紀的な情報が盛られていた可能性も考えられる。
 散逸の理由ははっきりしないが、十四世紀後半にまとめられた『本朝(ほんちょう)書籍(しょじゃく)目録(もくろく)』は、『日本書紀』の本文三十巻を「帝紀」の部に、「帝王系図一巻」を「氏族」の部に分類している。これをみると、はやい段階から「紀卅巻」と「系図一巻」は別個に扱われていたことが判明するのであって、あるいは、こうした認識が散逸の伏線となっているのかも知れない。すなわち、本文三十巻から分離した「系図一巻」は、閲覧に便利な、図式化された系図や、歴代天皇の事蹟を整理した年代記の普及に押され、次第に存在価値を失い、やがて姿を消したと想像されるのである。
 ちなみに、雄略天皇紀二十二年(四七八)七月条には、有名な水(みず)江(のえ)浦(うら)嶋(しま)子(こ)伝説の詳細が「別巻」にみえるという注記があり、「系図一巻」のほかに「別巻」というものが存在したことが知られる。ただし、こちらも現存しない。
『日本書紀』の「別巻」については別稿に譲るが、これは、おそらく、編纂過程で生じた餘材を分類・整理したものであろう。『日本書紀』では、採用を見送られたり、紙幅の都合で詳細を掲載できない資料もずいぶんあったと思われる。編纂に携わった人々は、そうした残材の散逸を惜しみ、それらを類聚して保管し、将来に備えることを思い立ったのであろう。その意味で、「別巻」の編纂はこんにち盛んなアーカイブスの魁(さきがけ)をなすものだと云える。

著者プロフィール

荊木 美行  (イバラキ ヨシユキ)  (

昭和34年和歌山市生まれ。昭和57年3月高知大学人文学部卒業、同59年3月、筑波大学大学院地域研究研究科修了。平成元年4月から四條畷学園女子短期大学専任講師、その後同4年4月から皇學館大学に転任、同大学講師・助教授を経て平成15年から教授。現在、皇學館大学研究開発推進センター教授・副センター長。博士(文学)。著書は、『風土記逸文の文献学的研究』(学校法人皇學館出版部,平成14年)・『記紀と古代史料の研究』(国書刊行会,平成20年)・『風土記研究の諸問題』(国書刊行会,平成21年)・『記紀皇統譜の基礎的研究』(汲古書院,平成23年)など多数ある。

上記内容は本書刊行時のものです。