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ヒューマン・スタディーズ 世界で語る/世界に語る 神本秀爾・河野世莉奈・宮本 聡(編集) - 集広舎
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取引取次: 鍬谷|地方小
直接取引:あり(自社)

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ヒューマン・スタディーズ 世界で語る/世界に語る (ヒューマンスタディーズ セカイデカタル ニカタル)

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発行:集広舎
四六判
304ページ
並製
価格 2,000円+税
ISBN
978-4-86735-024-9   COPY
ISBN 13
9784867350249   COPY
ISBN 10h
4-86735-024-9   COPY
ISBN 10
4867350249   COPY
出版者記号
86735   COPY
Cコード
C0030  
0:一般 0:単行本 30:社会科学総記
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2022年3月15日
書店発売日
登録日
2022年3月11日
最終更新日
2022年9月14日
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紹介

他者や物事に出会い,それを探究する試行錯誤の痕跡としてのテクストは,不確実でゴールのない「迷宮」としての世界を歩くための有効なハンドブックとなるだろう。文化人類学・文学・教育学など人文社会科学を専門にする研究者・実践者による初学者向けのエッセイ・コラム28篇を収載。

目次

■第Ⅰ部 学ぶこと・教えること

Who are you?[和栗百恵]
テスト、あるいは「能力」について[大森万理子]
子どもの「自己決定」[針塚瑞樹]
ヤギのいる学校、ヤギのいるまち[木下寛子]
【コラム】身近な地域に学び・伝える[永吉 守]
他者の場所で遊び、わたしの話を紡ぐ[池田竜介]
英文法の学び方[吉村理一]
英語が簡単に思える方法[萱嶋 崇]
【コラム】英語教科書における題材研究のすすめ[塩田裕明]

■第Ⅱ部 文学・言語パフォーマンス

文学と生きるあたたかさ[田中優子]
本を読むこと[河野世莉奈]
【コラム】うたを通じて拡散される場所のイメージ[神本秀爾]
本当の「鬼」とは「何」か?[福田安佐子]
【コラム】重ね合わせる生の雰囲気[猪熊慶祐]
笑いを知り、その活力を「わかる」[猪熊慶祐]
異文化との出会い[ファネリ幸織]
【コラム】アメリカの大学でたまたま受けた授業が[北川了次]

■第Ⅲ部 社会のなかの生

食をめぐる想像力[神本秀爾]
国民国家の植民地主義と「民族」[永田貴聖]
【コラム】異文化で自文化を研究すること、語ること[朴 眞煥]
嗜好品が示す「大人」と「子ども」の境界[草野 舞]
災害と家[野口雄太]
恋人に対する〈信頼〉はどこからくるのか?[深海菊絵]
【コラム】フィジーのろう者の「ことば」の世界 佐野文哉]
生命と技術と、その選択をめぐって[宮本 聡]
人の目に映らない霊たちはいないのか?[河西瑛里子]
わたしたちと国際社会[北 和樹]
【コラム】「お利口さん社会」を超えて[藤田 中]

編集後記[神本秀爾]

前書きなど

1 知るということ
 突然だが、子どもの頃に、何かに夢中になったことを思い返してもらいたい。例えば、登下校中で虫取りに熱中したり、庭のアリの巣を掘り起こしたり、架空の登場人物を主役とした物語を空想したり、消しゴムのカスを集めたり……子どもの頃はそれぞれ何か不思議なこだわりや熱中があったのではないだろうか。子どもは、自分の外側に広がる世界へ注意を払い、驚きや好奇心をもとに目の前に現れる未知のものごとにワクワクやどきどきしながら手を伸ばすものだ。そのように考えてみると、このこだわりや熱中は、生まれ落ちた世界を知ろうとする行為だったといえるだろう。名前や分類など、そのものへの具体的な知識はないかもしれないが、そのもの自体に対し自分なりに精通しようとしている。無自覚であるにせよ、すでにわたしたちは、世界を「知る=探究する」方法を身につけていたのではないだろうか。一方で、わたしたちは成長するにつれて、その探究を社会の中で既に用意している方法に委ねていき手放していくように感じられる。つまり、子どもの頃に身につけた個々の探究の方法は、ある種の「とるに足らない」方法として扱われがちである。そして同時に、主に学校という場での教育を通じて、「正しい」学び方や表現の仕方を習得することが望まれていく。
 人類学者であるインゴルドは、学校で教えられる世界の知り方と子どもの世界の知り方との違いについて、「迷路」と「迷宮」という比喩を用いて対比的に紹介している。前者の「迷路」は、一本道ではなく複数の選択肢を持って作られているが、ほとんどが行き止まり(デッドエンド)になる選択肢が提示される。そして、道の境界が目の前にある道以外のものを視界に入れないように障壁によって定められている[インゴルド 二〇一八:二五四]。つまりあらかじめゴールが設定されており、行き止まりになってしまわないように、正しい道を選択しゴールに到達するよう求められる。学校での学びを考えてみると、テスト用紙に書かれた問題にいかに間違わずに解答し、高い点数をとるというプロセスと似ている。そして、それは往々にして誰かとの競争がセットになっている。
 一方で「迷宮」は、先へ進むわたしたちの運動を妨げる壁はなく、進むべき道を指し示す微妙なしるし─足跡や積み重ねられた小石、木の幹につけられた傷─に注意深く目を光らせることが重要になってくる[二五五]。そこでは明確なゴールは見えていない。むしろ自身の周囲に現れるしるしに気をつけ進み続けること自体が目標となっていく。冒頭に紹介したような子どもの頃のこだわりや熱中は、「迷路」としての世界で提示される目標へ近づこうとすること(例えば良い高校に入るためにテストの選択肢をこなすような)ではなく、「迷宮」として目の前に現れる世界に対して心を躍らせながら注意を向けることなのである。ここでは必ずしも「迷路」での学びを否定するわけではない。明確なゴールの見えない世界の中で探究し続ける、「迷宮」での学び、という一つの学びのかたちがあることを忘れてはならないだろう。……

上記内容は本書刊行時のものです。