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東欧演歌の地政学
ポップフォークが〈国民〉を創る
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2023年4月30日
- 書店発売日
- 2023年4月28日
- 登録日
- 2023年3月28日
- 最終更新日
- 2023年5月31日
書評掲載情報
2023-07-08 | 東京新聞/中日新聞 朝刊 |
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紹介
聴け、民衆の魂の鼓動(ビート)を!
気鋭の研究者たちが〈うた〉から読み解く大衆の真実。
冷戦終結後、東欧諸国の自由化を映し出す民俗的大衆音楽、
それが「東欧演歌」だ!
ターボフォーク(セルビア、スロヴェニア)
チャルガ(ブルガリア)
マネレ(ルーマニア)
新作曲民謡(旧ユーゴスラヴィア)
アラベスク(トルコ)
ラビズ(アルメニア)
リプシ(東ドイツ)……
「これら東欧各国で流行している民俗的大衆音楽( それを筆者は「東欧演歌」と名付けた)は、当時東欧各国が体験しつつあった社会主義から自由経済へという現代最大の社会変革をみごとに映し出している。ここでは高価な車ときらびやかな宝石、最新のモードと奔放な性が歌われながら、その一方でそんな新しい生活への戸惑いや疑いも同時に表明される。音楽はオリエントとオクシデントの間で揺れ動く。新たに流入した欧米のポップ・ミュージックが模倣される一方で、ただのイミテーションでは済まずに突如「民俗的」な響きが噴出する」
──伊東信宏/本書「はじめに」より
セルビア、ブルガリア、ルーマニア、旧ユーゴ諸国、
トルコ、東ドイツ、スロヴェニア、アルメニア──
冷戦後に東ヨーロッパ各国で進んだ自由経済への体制転換。
一気に流れこんだ西側のポップ・ミュージックが
土着の音楽と結びついて民俗的大衆音楽が誕生した。
現地の文化状況に精通する気鋭の研究者が集結し、国際ニュースからは伝わってこない大衆の真実を〈うた〉から読み解く!
目次
はじめに(伊東信宏)
●序論
南東欧におけるポップフォーク──共同と交換の歴史を概観する
イヴァ・ネニッチ
伊東信宏+上畑史 訳
第1部 東欧演歌のハードコア
●第1章
セルビアのターボフォーク──「オリエンタルなヴェルヴェット」は何色(なにいろ)か
上畑史
●第2章
ブルガリアのチャルガ──アイデンティティ、変革、グローバライゼイション
一五年後の補足──ブルガリアのポップフォークがひらいた新しいページ
ステラ・ジブコヴァ
伊東信宏 訳・構成
●第3章
西欧化のジレンマとマネレ──ゆらぐルーマニア人のアイデンティティ
新免光比呂
●第4章
マネレ、あるいは界面としてのジプシー音楽
岩谷彩子
●対論
ポップフォークは演歌なのか──あるいは日本大衆音楽の東欧演歌化のために
輪島裕介
第2部 東欧演歌の源流へ
●第5章
麗し(レーパ)のブレナのはるかな旅──ユーゴスラヴィアの歌姫
奥彩子
●第6章
「アジュ」を歌え──トルコにおけるアラベスクの誕生と展開
濱崎友絵
●第7章
東ドイツ・ロック前夜のダンス音楽「リプシ」──戦後ドイツ大衆音楽の水脈をたどる
高岡智子
●コラム1
森への誘い──フォーク・メタルにみる民族/民俗
齋藤桂
第3部 東欧演歌の周縁へ
●第8章
薄明の流星──スロヴェニアのターボフォーク、その勃興と没落
クララ・フルヴァティン
伊東信宏 訳・構成
●第9章
東ドイツのフォーク・リヴァイヴァル運動
阪井葉子
●コラム2
アルメニアのシルショ──右傾化するアルメニアのポップフォーク
木村颯
初出一覧
プレイリスト
参考文献
人名索引
執筆者一覧
前書きなど
4 本書の構成(「はじめに」より/伊東信宏)
これまで述べてきたような東欧演歌の研究は、一人の研究者にとっては手に余る課題である。そもそも語学の点だけから言っても、歌詞にはジャーゴンや新語が頻出して、通り一遍の読解力では太刀打ちできないうえに、複数のマイナーな言語についてこれをこなさねばならない。歴史的な事情についても、各国、各民族についてかなり詳細な知識が要求される。しかも、最新の話題をフォローしていないと多くの場合ついていけない。そんなことを考えると、これはやはり各地域、各言語の専門家による共同研究という形をとらざるを得ない。「とらざるを得ない」と否定的な言い方をしているが、実を言えば「東欧演歌研究会」と名付けて行ってきた本書の母体となった共同研究が、筆者には楽しくてしかたなかった。勤め先の雑務から解放されて、異国の「びっくり箱」のような音楽の数々を教えてもらい、それについてさまざまな専門の人たちと議論を交わすことは、筆者に音楽学の悦びというものを思い出させてくれた。さらに言えば、現地在住の(おそらくは研究対象の曲の歌詞を母語とする)専門家たちは、自分の領域についてはもちろん最も詳細な情報を持っているが、隣国との関係や関連する地域全体の状況は客観的には捉え難い。日本のように離れたところで、研究会を組織することにも多少のメリットはある。それも励みとしながら、我々がこれまでおこなってきた研究をできるだけ魅力的に磨き上げてここに示したいと思う。
本書は3部9章、そして序論、対論、二つのコラムから成る。順に概要を説明しておこう。まず序論はイヴァ・ネニッチ博士による「南東欧におけるポップフォーク」である。イヴァは、長く研究対象と見なされてこなかったポップフォークを本格的に論じる若手の研究者として、セルビアで精力的に活動している音楽学者だ。ここではセルビアのターボフォークを中心として、ブルガリアやルーマニアの動向も視野に入れながら、精度の高い議論が展開されている。これは本書の他の各論でも論じられる諸問題が系統だって扱われているので、まずは序論でそれらを概観していただければ、と思う。
第1部は「東欧演歌のハードコア」と題し、セルビアの「ターボフォーク」、ブルガリアの「チャルガ」、ルーマニアの「マネレ」に関する論考から成る。これら三つのジャンルが、筆者の見る「東欧演歌」の核である。第1章の著者、上畑史さんは「東欧演歌」を対象として博士号を取得したおそらく日本で初めての研究者である。実は日本人が「ターボフォーク」で博士号を取得しようとしている、という話はセルビアでは数年前から有名で、彼女は何度もテレビ番組などに引っ張り出されている。当のセルビア人にとって、ターボフォークなどという題材で真面目な論文を書こうとすることはかなり興味深いことらしい。ターボフォークとセルビアに対する愛を秘めつつ、ここではその歴史的社会的意味が多様な角度から語り出される。第2章はステラ・ジブコヴァさんによる「チャルガ」の概観。ステラさんはかつて筆者の勤める大学に留学して博士号を取得し、その頃に筆者と協力して彼女の研究とは多少畑違いの「チャルガ」についてまとめてくれた。実はこれはもう一五年ほども前のことで、冒頭に書いた筆者のチャルガ体験以前のことである。その後も彼女は「あんたみたいなインテリが、なんでこんな雑誌に興味があるんだ?」と売店のおじさんに訝しがられながら、チャルガの専門誌を買って筆者に送り続けてくれた。ここではその歴史的な価値も主張したくて、その論考をほぼそのまま収録し、その代わりに「一五年後の補足」として現在の「チャルガ」(という用語はこの間にほぼ使えなくなり、「ポップフォーク」と呼ばれるようになった)の状況を伝えてもらった。第3章はルーマニアの民俗学を専門とする新免光比呂さんが寄稿してくれた「マネレ」の概観である。新免さんは我々の研究会にいつも駆けつけてくれたいちばん熱心な参加者であり、各々の発表に耳を傾けてくださった。第四章はやはり「マネレ」に関するもので、二〇一〇年代以降の状況に重心を置く、岩谷彩子さんの論考である。これはロマの比重がとりわけ高い「マネレ」を、「浅薄」な音楽として捉えるものである。その薄っぺらいフェイクたるマネレは、だからこそロマと非ロマの「界面」を活性化するものとして機能しうる──この視座は本書全体にとって重要なものである。そして第1部の最後には輪島裕介さんによる対論「東欧演歌は演歌か?」が置かれている。輪島さんは筆者の職場の同僚でもあり、ポピュラー音楽研究を専門とする立場から、ご寄稿いただいた。この論考のタイトルにある問いかけは研究会当初から突きつけられていたものだったが、多少異例ながら「対論」としてここに掲載し、本書に複眼的な奥行きを持たせたいと考えた。
第2部「東欧演歌の源流へ」は、タイトルどおり「東欧演歌」の前身、源流をたどる試みである。第5章で扱われるレーパ・ブレナは、上述の「新作曲民謡」とターボフォークをつなぐ存在とされ、現在のターボフォーク歌手たちにとっては直近の参照軸と言えるだろう。気鋭のセルビア文学研究者、奥彩子さんが寄稿してくれた。第6章はトルコの「アラベスク」に関する論考。トルコ音楽を専門とする濱崎友絵さんの研究である。ちなみに同論考の中にあるR&Beskの話は研究会を続けてきた中でも最も印象的な発見の一つだった。そして第7章は東独のロックに関する研究で、これは東独の音楽を研究している高岡智子さんが寄稿してくれた。冷戦期の東側における大衆音楽の事情は、明らかに「東欧演歌」の前史と関係しているので貴重な情報である。そして第2部の最後に、齋藤桂さんによる「フォーク・メタル」に関するコラム。「メタル」を基調としてそこに(ほぼ架空の)神話的民俗文化を仮託しようとする「フォーク・メタル」も「東欧演歌」に劣らぬぐらい興味深いジャンルだが、二つを照らし合わせるといよいよ現代における「民俗的なもの」の奇妙なあり方が浮かび上がる。
第3部「東欧演歌の周縁へ」には、東欧演歌の時間的・空間的な周辺部についての論考を収めている。第8章はスロヴェニアからの寄稿で、スロヴェニア版「ターボフォーク」に関する論考。大阪大学で日本の戦後の前衛音楽に関する博士論文を書いたクララ・フルヴァティンさんがまとめてくれた。同じ「ターボフォーク」とはいえ、スロヴェニア版はセルビア版よりもずっと鄙びていて、ほとんどポルカのような響きが中心である。その対比と、それが生まれてくる理由は熟考すべき課題である。また第9章は故阪井葉子さんの遺稿で東独のフォーク・リヴァイヴァル運動に関する論考である。東独における「フォーク」をめぐる歴史を扱っているが、東独に限らず、バルカンより北の東欧諸国(ハンガリー、ポーランド、チェコ、スロヴァキアなど)には、結局のところ「東欧演歌」に類するジャンルが生まれなかった(か、生まれてもあまり活力がなかった)。それがなぜだったのか、という問題は東欧演歌研究会発足時から考えていたことだった(筆者自身は、それがオスマントルコ支配の濃度と関係しているのではないか、という仮説を唱えている)が、阪井さんの論考はその答えの一つを示してくれているように思う。阪井さんは、我々の研究会で発表してくれた後、病に倒れ、二〇一七年夏に亡くなった。彼女の遺稿は幸いにしてパートナーでもあった三谷研爾さん(筆者の職場での同僚でもある)の手でまとめられ『戦後ドイツに響くユダヤの歌──イディッシュ民謡復興♥』(青弓社、二〇一九)として刊行されたが、本論考はこの遺著とも関係しながら、別の視角でまとめられたものである。出版が遅れたのは編者の責任であり、彼女の生前に本書を見せることができなかったのは今も申し訳なく思っている。そして今回も三谷さんが遺稿を整理してくださった(研究科長として多忙な日々の中でまとめていただいたことに、深謝します)。そして第3部の最後には、卒業論文・修士論文でアルメニアの音楽をとりあげた木村颯さんにアルメニアのポップフォーク「ラビズ」と、やはり民族的なものを基盤とする歌手シルショについてコラムを書いてもらった。コーカサスからさらに中央アジア(たとえばカザフスタンやウズベキスタン、さらにモンゴルなど)にも「東欧演歌」の波は押し寄せている。もちろんそこでは対象はもはや「東欧演歌」とは呼べなくなるが、「ユーラシアのポップフォーク」は、我々の研究の次なる展開の場だと考えている(たとえばカザフスタンのガールズ・グループ、ケシュユーは、おそらく「東欧演歌」とK-POPとの交差するところで考える必要があるだろう)。そのような対象にふさわしい若い著者が得られたのは幸せだった。
あらためて言うまでもないが、右記の構成は編者の側からの整理であり、それぞれの論考はかなり独立性も高く、読者は興味を持たれたところから読まれてもいっこうに差し支えない。そのうえで各地域の問題を比較したり、影響関係を考えたりするのはとても楽しい作業で、編者はこの書を編みながら立場を忘れて関連する文献やヴィデオを漁るのをなかなかやめられなかった。読者に、そういう営みを誘発することができたら、我々としては本望である。
上記内容は本書刊行時のものです。