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星座の人 山川健次郎
白虎隊士から東大総長になった男
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2021年9月15日
- 書店発売日
- 2021年9月10日
- 登録日
- 2021年7月19日
- 最終更新日
- 2021年9月9日
書評掲載情報
2021-10-19 | 夕刊フジ |
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紹介
白虎隊の隊士から東京帝大、京都帝大、九州帝大の総長にまでのぼりつめ、明治、大正、昭和初期に「星座の人」と呼ばれた教育界の大御所・山川健次郎の生涯を、「会津」の視点から歴史を書き続けている著者の感動作
目次
はじめに ~会津が生んだ巨人~
序 章 危 機~存亡の淵で~
第一章 悲 劇~城下の戦い~
第二章 落 城~将来に夢を託す~
第三章 光 明~仇敵・長州の良心~
第四章 強 運~米国留学~
第五章 志 学~科学者山川健次郎の誕生~
第六章 魂 触~愛弟子と、妻と~
第七章 清 貧~使命は人育て~
第八章 友 情~頂点への道~
第九章 期 待~引退許すまじ~
第十章 そして~巨星の生涯~
前書きなど
明治、大正から昭和の初期にわたり「星座の人」と呼ばれた教育界の大御所がいる。「星座の人」とは、社会を導く人という意味である。その人の名前は山川健次郎という。生地は会津若松で、嘉永七年(一八五四)の生まれ。幼少の頃はあの有名な白虎隊の隊士だった。十八歳のときアメリカ留学の機会に恵まれ、翌年には名門エール大学に学び、長じて東京帝国大学に奉職し、薩長藩閥政府のなかで二度も総長を務めた。これは異例中の異例といってよい。この間、京都帝国大学、九州帝国大学の総長も務めた。東北帝国大学の創立にも深く関係した。東京物理学校、現在の東京理科大学の創立にも尽力した。
退官したあと武蔵高校(現在の武蔵学園、大学・高校・中学)、明治専門学校(現在の九州工業大学)の校長や総裁も務めた。全国を歩いて教育談義も行った。日本人初の東京大学の物理学科の主任教授であり、湯川秀樹、朝永振一郎ら日本の物理学者は皆、健次郎の流れをくみ、有名な物理学者田中館愛橘、長岡半太郎は直弟子だった。
風貌は巨眼炯々として会津武士の気迫がただよい、見るからに偉丈夫だった。終生清廉潔白を旨とし、東京小石川の住まいは田舎臭く破れ別荘のようであった。芸妓が出る宴会には出席せず、講演会に招かれても報酬は一切受け取らなかった。相当の堅物だったが部下や学生には優しかった。会津若松の戦争で敗れた会津の人々は本州最北端の下北半島に流され、極貧の暮らしを強いられた。それを思うと贅沢は出来なかった。健次郎の自宅にはいつも会津の青年が何人か居候していた。
山川健次郎の素顔はこんなものだった。人々はそんな健次郎を「フロックコートを着た乃木将軍」といった。一つのことを成し遂げると、それを弟子たちに譲った。弟子の方がいつの間にか有名になった。それでいいのだと健次郎は考えた。
私はかつて健次郎が学んだ会津藩黌日新館の流れをくむ福島県立会津高校で講演する機会があった。男女共学になり、伝統の剣舞隊にも女子生徒が入っていた。どの生徒も会津の歴史に深い関心を持ち、山川健次郎についてもその業績を知っていた。そして同じ年代だった白虎隊の行動についても理解を示していた。
健次郎の精神は会津の若者に確実に受け継がれていると、私は感じた。会津を代表する魂の人が、山川健次郎であり、その魂を受け継ぐ会津高校の生徒たちと話し合っていると、必ずや第二、第三の健次郎がこの会津若松から誕生するに違いないと思った。
時代は、明治、大正、昭和、平成、令和と移り変わった。しかし、健次郎がなそうとしたことは今も全く古びていない。いや、むしろ、我々は健次郎が望んだ日本にすることができたのであろうか。
令和の今、そのことを自らに問い直そうと思ったのである。
版元から一言
白虎隊の隊士から刻苦精励し、東京帝大の総長にのぼりつめただけでなく、京都帝大、九州帝大の総長もつとめ、明治・大正・昭和初期、星座の人と呼ばれ、教育界の大御所として人々の尊敬を集めた山川健次郎の生涯を、会津の視点から作品を送り出している著者・星亮一氏が著した感動作。
上記内容は本書刊行時のものです。