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心の哲学
新時代の心の科学をめぐる哲学の問い
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2017年7月
- 書店発売日
- 2017年7月6日
- 登録日
- 2017年6月19日
- 最終更新日
- 2017年7月3日
紹介
心とは、哲学的にどうみなされ得るものなのでしょうか。本書は内容を三部構成とし、第I部では「還元主義」「観念論」「現象主義」「自然主義」「消去主義」など心身問題をめぐる主要な哲学的立場を解説。第II部では「志向性」「意識」「自己/自我」「人格の同一性」などに関する心の哲学の主張や論争を紹介。第III部では「心の理論」「精神疾患」「社会脳」「EBM」など心の科学の諸説に対し、心の哲学からの批評を試みています。最新のトピックスや研究も収めつつ心の哲学の全貌を簡潔に描き出した本書は、初学者の入門書として最適です。
目次
ワードマップ 心の哲学 目次
第Ⅰ部 心身問題
Ⅰ-1 二元論 現代では何が問われているのか
Ⅰ-2 還元主義 心的性質と物的性質は同一なのか
Ⅰ-3 観念論 物的世界は心と独立に存在するのか
Ⅰ-4 現象主義 われわれは何を知覚するのか
Ⅰ-5 自然主義 自然科学の枠組みに含まれるものとは
Ⅰ-6 行動主義 心は行動のパターンなのか
Ⅰ-7 心脳同一説 心は脳と同一なのか
Ⅰ-8 機能主義 心は因果的機能によって捉えられるか
Ⅰ-9 目的論的機能主義 志向性をもつ心をどう説明するか
Ⅰ-10 非法則的一元論 物の法則性/心の非法則性
Ⅰ-11 解釈主義 合理性の観点から見られた心
Ⅰ-12 消去主義 心的状態はそもそも実在するのか
Ⅰ-13 心的因果をめぐる諸説 心は行為を惹起する因果的効力をもつか
第Ⅱ部 志向性・意識・自我
Ⅱ-1 志向性と表象 志向性は表象的特性と同一なのか
Ⅱ-2 志向的姿勢 志向的な概念はなぜ行動の予測に有用か
Ⅱ-3 心的内容 心の内容は内的状態により決まるのか
Ⅱ-4 生物的意味論 志向性をいかに自然化するか
Ⅱ-5 命題的態度 命題的態度をめぐるさまざまな論争
Ⅱ-6 意識とクオリア 意識的経験の何が特別なのか
Ⅱ-7 意識のハードプロブレム 意識の自然化はなぜ困難なのか
Ⅱ-8 意識の表象説 意識の自然化の鍵は表象にある
Ⅱ-9 意識の高階説 意識と無意識はどのように区別されるのか
Ⅱ-10 一人称的視点 三人称的に理解できるだろうか
Ⅱ-11 説明ギャップ 物理主義は意識を説明しきれるか
Ⅱ-12 現象的概念 意識の特殊性を説明しさる
Ⅱ-13 自己/自我 私は通時的・持続的に実在するのか
Ⅱ-14 意識の統一性 私の心はいかにして一つにまとまるのか
Ⅱ-15 人格の同一性 「同じ人」であるとはどういうことか
Ⅱ-16 美的経験と情動 情動は美的評価をもたらすのか
Ⅱ-17 意識と倫理 意識の有無が生み出す道徳的な差異
Ⅱ-18 倫理的徳と認識的徳 性格によるのか、それとも状況か
Ⅱ-19 知覚経験の内容 経験の存否と種類をめぐる論争
Ⅱ-20 認知的侵入(不)可能性 認知は知覚に影響しうるか
Ⅱ-21 集団心 集団が心をもつことはありえるか
第Ⅲ部 心の科学と哲学
Ⅲ-1 他者理解 他者の心はどのように理解されるか
Ⅲ-2 自己知 自分の心は特別な仕方で知られるのか
Ⅲ-3 心の理論と自閉症 心の理論は自閉症を説明できるのか
Ⅲ-4 社会性と社会脳 社会脳研究の広がりとその可能性
Ⅲ-5 自己制御と意志 情動はどう関わるのだろうか
Ⅲ-6 フレーム問題と情動 どうすれば関連性を瞬時に把握できるか
Ⅲ-7 アフォーダンスとオシツオサレツ表象 知覚と行動をどうつなぐのか
Ⅲ-8 古典的計算主義 心はコンピュータだ
Ⅲ-9 コネクショニズム 心はニューラルネットワークだ
Ⅲ-10 力学系理論 認知は表象の操作ではない
Ⅲ-11 拡張された心 心と世界の境界はどこか
Ⅲ-12 予測誤差最小化理論 ベイズ推論としての心
Ⅲ-13 精神疾患 正常と異常の境界は科学的に画定できるか
Ⅲ-14 精神療法の哲学的基礎 心の治療は身体の治療とどう異なるか
Ⅲ-15 精神障害(精神疾患)の分類問題 精神障害は自然種か
Ⅲ-16 EBM/VBM/NBM 証拠・価値・物語は精神医療にどう関わるか
Ⅲ-17 妄 想 どのようにして成立するのか
Ⅲ-18 自己欺瞞 自らを欺くことは可能か
Ⅲ-19 依存症 病的な依存は心をどう変質させるか
人名索引
事項索引
■装幀=加藤光太郎
前書きなど
ワードマップ 心の哲学 まえがき
アルファ碁の勝利は衝撃的であった。二〇一六年三月、囲碁の人工知能アルファ碁が、世界で最強の囲碁棋士の一人である韓国の李セドルに四勝一敗で勝利した。チェスや将棋では、すでに人工知能が人間のトッププロに勝利していたが、指し手の可能性がはるかに多い複雑な囲碁では、人工知能がトッププロに打ち勝つのは、まだ少し先だとみられていた。このアルファ碁の快挙の背後には、ディープラーニングという学習法により、アルファ碁に自分で学習させ、囲碁の局面を人間よりもさらに深くパターン認識できるようにしたということがある。アルファ碁は、論理的な推論能力よりも、むしろ直観的な把握能力がすぐれていたために、人間に勝利したのである。
人工知能や脳科学など、心の諸科学の発展は、近年とくに著しい。常識的には思いもしないような心の隠された側面が次々と暴き出され、それに伴って日常的な心の理解も、大きな変更を迫られつつある。知覚、思考、情動、意志などの心の基本的な働きには、じつは私たちがふだん考えもしないような隠れた無意識の過程があり、それが次第に明らかになってくると、思考の合理性、意志の自由、自己の同一性などの常識的な心の理解の根幹をなすものが、大きく揺さぶられてくるのである。常識的な心の見方(すなわち素朴心理学)が神経科学的な見方に取って代わられ、消去されるという消去主義の過激な主張も、あながち絵空事ではなくなってきた。このような心の科学の時代にあって、あらためて心とは何かを哲学的に問い直し、さまざまな考察を一望できるようにすることは、非常に大きな意義がある。心の哲学を主題とする本書の狙いも、まさにそこにある。
■心の哲学の根本問題
心の科学の進展によって、心の理解が一新されつつあるが、それでも心に関する根本的な問題は、従来と少しも変わらない。それは心身問題である。心と身体(あるいは一般に物)はどのような関係にあるのか。この問題は、心の本性とは何かという問題と表裏一体である。心と物がどう関係するかは、心の本性をどう捉えるかによって変わってくるし、その逆も言える。心身問題を問うことは、心の本性を問うことに他ならない。心身問題は従来から心の哲学の根本問題であったが、心の科学の時代になっても、それは変わらない。心の科学が進展しても、それだけでは、心身問題は解決されないし、心身問題が解決されなければ、心の科学の成果に十分な意味づけを与えることができない。たとえば、脳のある部位が興奮すると、痛みを感じることがわかっても、それだけでは、その神経興奮と痛みの関係(同一なのか、単なる相関なのか、はたまたさらに別の関係なのか)はわからない。心の科学の時代であるからこそ、いっそう心身問題の解決が求められるのである。
心身問題はなぜ生じるのだろうか。心には二つの根本的な特徴があるように思われるが、それらがじつはそう簡単には両立しえないことから、心身問題が生じてくる。まず、心は物と根本的に異なるようにみえる。脳のある部位が興奮したときに痛みの感覚が生じるとしても、痛みの感覚は脳の神経興奮とは全く異なるようにみえる。両者が同一であるとはとうてい思えない。それゆえ、心は非物質的であるように思われる。しかし、その一方で、心は物と密接な因果的関係をもつようにみえる。バナナから光の刺激が与えられると、バナナの知覚が引き起こされ、手を挙げようと意志すると、手が挙がるという身体運動が引き起こされる。しかし、心が非物質的なものだとすれば、いったいいかにして心が物に対してそのような因果的関係をもちえるのだろうか。心の非物質性と因果性は両立しがたいように思われるのである。
この困難な状況を打破するために、心身問題に対してさまざまな解決が提唱されてきた。本書の第Ⅰ部では、二元論、心脳同一説、機能主義、消去主義など、心身問題に関する諸立場をかなり網羅的に取り上げた。これらの項目によって、心身問題において何が争点となり、なぜさまざまな立場に分かれるのかが明らかになろう。心身問題をめぐる諸立場の全貌を簡潔に描き出すことが第Ⅰ部の目標である。
■心の哲学の多彩な展開
心に関わる事柄は、およそどのようなことであっても、心の哲学の主題となりえる。たしかに、心の本性を問う心の哲学にとって、心身問題がその中心となることは間違いないが、そのほかにもさまざまな問題が論じられ、じつに多彩な展開をみせている。そのなかでもとくに大きなテーマは、志向性と意識である。心は物と根本的に異なるようにみえるが、それでは、正確に言って、いったい何が異なるのだろうか。心の独自な特徴としてしばしば挙げられるのが、志向性と意識である。
まず、志向性であるが、心はいろいろなものを表す働きをもつ。たとえば、太郎は無実だと私が信じるとき、この私の信念は太郎が無実であることを表し、その表されたことに対して信じるという態度(疑うとか、願うという態度ではなく)をとっている。言い換えれば、その信念は太郎についての信念であり、太郎に向けられた(=太郎を志向する)信念である。心にはこのように何かを志向する働きがある。しかし、このような志向性は物理的な事物にはみられないように思われる。たとえば、机の上にある消しゴムが何かを表すということはない。それはただそこにあるだけである。たしかに、その消しゴムがちびていれば、それはその消しゴムが盛んに使われたことを表すかもしれないが、そうであるのは、私たちがそのちびた消しゴムを見て、それが盛んに使われたと思うからであり、そのような心の働き(志向性)がなければ、消しゴムは何も表さない。物理的な事物が何かを表すとしても、それはそれ自体で志向性をもつのではなく、心の志向性に基づいて派生的にもつにすぎないように思われる。
次に意識であるが、志向性と並んで、意識もまた、心の独自な特徴であるように思われる。赤いバラが眼の前に見えるとき、心にはバラの色や形が意識的に立ち現れる。このような意識的な現れ(クオリアと呼ばれる)は、物理的な事物にはみられないように思われる。物理的なバラは赤い色をし、特有の形をしているが、そのような色や形は意識的な現れではない。眼を閉じてバラが見えなくなれば、心に現れる色や形はなくなるが、物理的なバラの色と形がなくなるわけではない。また、バラが見えるときの脳の神経興奮も、一群のニューロンが一定の仕方で興奮しているというだけで、バラの色や形の意識的な現れがそこにあるようにはとうてい思えない。意識的な現れは物理的世界には存在せず、ただ心の中だけにあるように思われる。
このように志向性と意識は心の独自の特徴であるようにみえる。しかし、志向性と意識は本当に心の独自の特徴であろうか。物が志向性や意識をもつことは、本当にありえないのだろうか。現代の心の哲学では、志向性と意識の自然化(すなわち物理的世界への位置づけ)が盛んに試みられている。志向性と意識を心に特有の原初的な特徴とみなすのではなく、それらに物理的な説明を与え、そうすることでそれらを物理的世界に位置づけようとするのである。第Ⅱ部には、志向性と意識について、そのような自然化の可能性を探る項目をそれぞれいくつか取り上げた。
志向性と意識は、現代の心の哲学において、最初期から論じられてきた大きなテーマであるが、最近では、自我の問題が次第に大きく取り上げられるようになってきた。自我論はもちろん、心の哲学の一つのテーマというより、それ自体で独自の領域をなす大きなテーマであるが、意識の統一性や記憶の連続性など、自我と関係の深い心の諸側面の分析が進展するにつれて、心の哲学においても、一つの重要なテーマとして論じられるようになってきた。第Ⅱ部では、そのような自我論の新たな展開に関係する項目も、いくつか取り上げた。
最近ではさらに、心の哲学は、美学、倫理学、認識論などにおいて重要となるような心の働きについても、その根源的な解明に乗り出しつつある。ある絵を見て美しいと感じる美的経験には、単なる快感ではなく、もっと複雑で微妙な情動が含まれているように思われるが、そのような情動とは何であろうか。また、意識があるということは、尊厳があるということであろうか。意識は倫理にとってどれくらい重要なのだろうか。さらに、すぐれた認識には、知的な勇気や開かれた心のような卓越した性格、すなわち知的な徳が必要なように思われるが、そのような徳とはどのようなものであり、倫理的な徳とどう関係するのであろうか。
このほかにも、心の哲学の多彩な展開を示すものとして、知覚や集団心の探究がある。知覚は、信念のように、命題的な構造をした概念的な内容をもつのだろうか。それとも、信念と違って、非概念的な内容をもつのだろうか。また、知覚は、信念や欲求などの認知の影響を受けて変化しうるのだろうか。つまり、知覚は認知的に侵入可能なのだろうか。さらに、個々の人間は心をもつが、人間の集団も心をもちえるのだろうか。第Ⅱ部では、これらに関するさまざまな項目を取り上げている。
■人工知能/脳科学の時代における心の哲学
最初にふれたように、現代の心の哲学の大きな特徴は、人工知能や脳科学などの心の諸科学の急速な発展を背景として、心の哲学の諸問題が論じられていることである。第Ⅲ部では、このような問題の中からとくに顕著なものを選んで取り上げた。
他人の心をいかにして理解するかという他者理解の問題(=他我問題)は、心の哲学の伝統的な問題であるが、最近、脳科学におけるミラーニューロンの発見によって新たな展開をみせている。ミラーニューロンは自分がある行動をするときに活性化するだけではなく、他人がその行動をするのを見るときにも活性化する。したがって、他人がある行動をするのを見たときに自分のミラーニューロンが活性化するということは、自分でもその行動をしようとすることだと考えられる。そうだとすると、自分の行動の意図は自分にとって明らかだから、そこから他人の行動の意図も明らかとなる。こうして他人の意図が理解できるようになる。このようなミラーニューロンの働きが、他者理解に関する従来の諸説(理論説やシミュレーション説など)のどれを支持するかをめぐって、活発な議論が展開されている。
他者理解のほかにも、それと関連する問題として、自分の心はいかにして知られ、その知識にはどのような独自性があるかという自己知の問題、自閉症者は他人の心を理解するための「心の理論」に障害があるのではないかという問題、人間の社会性を実現する脳の働きに関する研究(=社会脳の研究)から人間の社会性にどんな新たな光明がもたらされるかという問題を取り上げた。さらに、これらと近接する問題として、適切な情動は自己制御や意志の働きを阻害するよりもむしろ促進するのではないかという問題、直面する課題に関係する事柄をいかにして迅速に把握できるかという問題(=フレーム問題)を解く鍵は情動にあるのではないかという問題、知覚することは行為することではないかという知覚と行為の一体性を問う「アフォーダンス」と「オシツオサレツ表象」の問題を取り上げた。
また、心の科学が発展するにつれて、科学的な心の見方がいろいろ提案されてきたが、それらを哲学的に吟味することも盛んに行われてきた。たとえば、心をコンピュータに見立てて、心の状態は記号のように、一定の要素を一定の仕方で組み合わせた構造(=構文論的構造)をもち、その構造に従って心的状態の処理が行われるという古典的計算主義の見方や、心を脳のニューラルネットワークに見立てて、心の状態はそのような構文論的構造をもたないニューロン群の興奮パターンであり、そのようなパターンを変形することで心のさまざまな働きが生まれるとするコネクショニズムの見方が提唱され、どちらが正しいかをめぐって論争が行われた。また、心(=脳)は環境からそれなりに自律したものというより、環境と緊密な相互作用を行っていて、環境と不可分だとする力学系理論や、心は脳や身体だけではなく、環境まで含むのだとする「拡張された心」の見方、心は事物についての予測と実際に事物から得られる情報との誤差を最小化することで、あらゆる心の働きを達成するという予測誤差最小化理論が提唱され、それらが哲学的に吟味されてきた。
このような科学的な心の見方に関する哲学的な吟味を取り上げるとともに、第Ⅲ部でとくに力を入れて取り上げたのは、精神医学に関わる哲学的な諸問題である。心の病が人間の根源的なあり方をいかに開示するかを探る哲学的な考察は従来から行われてきたが、最近、脳科学の発展によって、心の病が少しずつ脳の病として捉えられるようになってくると、心の病についての哲学的な考察にも新風が吹き始めるようになってきた。この新たな展開では、心の哲学におけるさまざまな概念や見方を動員して、心の病の本質に迫る試みがなされており、そこに一つの大きな特色が認められる。このような新たな動向を示す問題と考察をいくつか取り上げた。すなわち、精神疾患とはそもそも何なのか。薬物療法ではなく、治療者の言葉や態度によって治療を行う精神療法とは結局何なのか。精神障害はうつ病や統合失調症などのタイプに分類されるが、それはいったいどんな分類であり、そもそも精神障害は本当に分類可能なのか。精神医学において証拠、価値、物語はそれぞれどんな役割を担うのか。
これらの問題に加えて、個別的な心の病に関する哲学的に興味深い問題も、いくつか取り上げた。他者からの合理的な説得にもかかわらず、なぜ病的な妄想は執拗に維持されるのか。自分で自分を欺くというような心のあり方がいかにして可能なのか。止めようと思っても止められない依存症的な心のあり方とはいったいどのようなものなのか。これらの問題のほかにも、精神医学に関わる哲学的な問題は数多くあるが、ここで取り上げた項目は精神医学の哲学の新たな動向を展望するには十分であろう。
最後に、この場をお借りして、本書の成り立ちについて簡単にふれておこう。心の哲学に関するワードマップを出そうという提案をしてくれたのは、新曜社の森光佑有さんである。森光さんはまた、本書の煩瑣な編集の作業を綿密に行ってくれた。心より感謝する。心の哲学については、すでに日本語でも何冊か入門書や解説書が出されている。しかし、ワードマップのような形で現在の心の哲学の多様な広がりを俯瞰できることは、非常に大きな意義があろう。本書は多様な項目からなるが、幸い、各項目にふさわしいすぐれた執筆者を得ることができた。本書によって、人工知能と脳科学の時代における心の哲学の動向を多くの方に知っていただければ幸いである。
信原幸弘
上記内容は本書刊行時のものです。