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ヨーロッパ中世のジェンダー問題
異性装・セクシュアリティ・男性性
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2023年8月10日
- 書店発売日
- 2023年7月28日
- 登録日
- 2023年6月28日
- 最終更新日
- 2023年8月24日
紹介
西洋中世世界のジェンダー構造について、とりわけキリスト教における性の観念に注目し、男装と女装、レイプ・売春、マスキュリニティ(男性性)といった観点から、一般読者にもわかりやすい語り口で詳述する。現代のジェンダー問題への示唆にも富む一冊。
目次
はじめに
第一章 衣服のジェンダー論
1 衣服とは何か――衣服の文化論
(1)何のために衣服を着るか
(2)ジェンダーを決定する衣服
(3)ジェンダーとセックス
2 衣服の権力論
(1)権力とジェンダー
(2)衣服条例とは何か
(3)ジェンダー構造を維持するための衣服条例
(4)衣服規制とファッション
3 前近代の服装論
(1)旧約聖書の服装論
(2)新約聖書の服装論
(3)教父たちのおしゃれ批判
(4)トマス・アクィナスの衣服論
(5)ルネサンスの衣装論
第二章 異性装論
1 異性装という問題
(1)「異性装」という言葉の登場
(2)禁じられている異性装
2 聖女たちによる男装
(1)女性の聖人たち
(2)『黄金伝説』に登場する男装の聖女たち
(3)ヤコブスは男装聖女たちをどのように見ていたか
(4)シェーナウのヒルデグントの場合
(5)女たちはなぜ男装をしたのか
(6)男になる
3 騎士となった女性――『シランス』の場合
(1)『シランス』という物語
(2)名は体を表す
(3)行動がジェンダーを決定する
(4)マーリン
(5)封建制
(6)〈生まれ〉と〈育ち〉
4 手段としての女装
(1)女に近づく手段としての女装
(2)売春の手段としての女装
(3)演劇空間における女装
(4)『女性への奉仕』を読む
(5)ウルリヒはなぜ女装をしたのか
(6)ウルリヒの女装は男装者とどのように違っていたのか
(7)マスキュリニティと女装
第三章 セクシュアリティとジェンダー
1 西洋中世におけるレイプの構造
(1)レイプは歴史を持っているか
(2)古代ローマの法に見るレイプ
(3)ゲルマン部族法におけるレイプ
(4)聖書解釈学者たちのまなざし――旧約聖書に見られるレイプとその解釈の歴史
(5)教会法におけるレイプ
(6)女に対する性犯罪としてのレイプの成立
2 レイプ犯罪の現実を見る
(1)襲われたジョーン
(2)グランヴィルとブラクトン
(3)実際に起訴されたレイプ犯罪の数
(4)女を恐れる男たち
3 中世末期の娼婦たち
(1)教会人の売春観
(2)中世都市と売春
(3)中世末期のロンドンと売春
(4)サザクを概観する
(5)サザク娼館条令を読む
(6)生活者としての娼婦
第四章 西洋中世における教会とジェンダー
1 教会法による結婚
(1)教父たちの結婚論
(2)教会法に見る結婚
(3)アレクサンデル三世による結婚論の完成
(4)教会法による結婚の問題性
2 カトリックと女性聖職者
(1)カトリック教会における聖職からの女の排除
(2)宣言
(3)書簡
(4)教父たち
(5)教会法
(6)スコラ哲学者たち
(7)開かれた議論のために
(8)神学的議論から歴史的議論へ
(9)叙階に関しての問題
(10)女助祭
(11)当時の人々にとって女助祭は助祭であった
3 教皇になった女性
(1)女教皇の登場
(2)女教皇の存在が受容される
(3)女教皇をめぐる論争とその存在の否定
(4)女教皇のファンタジー
第五章 中世のマスキュリニティ
1 グレゴリウス改革とマスキュリニティ
(1)グレゴリウス改革
(2)グレゴリウス改革とはなんであったか
(3)聖職者はなぜ結婚してはいけないのか
(4)教会との結婚
2 中世におけるハゲとマスキュリニティ
(1)カール禿頭王は禿げていたか
(2)長髪の王たち
(3)短髪の王たち
(4)なぜカールはハゲ王と呼ばれたか
(5)トンスラ
(6)頭髪をめぐる戦い――男らしさをめぐって
おわりに
あとがき
前書きなど
はじめに
我々は生まれてすぐに生物学的にメスであるかオスであるかを決定されてしまう。たぶんおちんちんがついているとオス、なければメスと判断されているのだろう。そしてメスは女として、オスは男として育てられる。以下、メス、オスと表現するときには、生物学的な意味での雌雄のことであり、女、男という言葉を使うときには、社会的な性差、つまりジェンダーのことであることを了解していただきたい。
さて、その後、女とされたメスが男になりたいと考えても、生まれてすぐに決定されたメスとオスの区別はなかなか変えられない。ただ単にメスとオスに分けられているだけであれば、まだましかもしれないが、それだけではなく、メスであれば、文化的に決定されている女らしさを、そしてオスであれば、男らしさを身に付け、女として、あるいは男として生きるよう要請される。暗黙の裡に要請されるのではなく、当然のこととして強制されるのである。メスは女であり、オスは男なのだから、そのように行動するのは当たり前だというわけである。しかし生まれてすぐに決定された性別に違和感を持ち、メスとされてしまったが、なんとなく女として生活することが難しいという人もいる。またオスとされてしまったが、自分はどうしても男とは思えないという人もいる。従来、こういう人たちは異常であり、病気であるとされてきた。それはオスであれば、かならず男であり、男として思考し行動するのが当たり前で、女との性行為を望むものだし、メスであれば、ぜったいに女であり、女として思考し行動するのが当たり前で男に恋心を抱くものだと思われているからにほかならない。社会的な女と男は恣意的に決められているだけだから、これは正確に二分割することが可能である。しかし生物学的な意味でのメスとオスは本当に二分割が可能なのであろうか。あるいはメスと女、オスと男はかならずきっちりと対応するのであろうか。メスとされながら、女として生きることに違和感を覚えることは異常なことなのであろうか。
(…中略…)
さて、そうした役割の優劣が存在している結果、男が優位にあり、女が劣位に置かれることになる。この関係は現在わかっている多くの、ほぼすべての文化において当てはまる構造である。キリスト教原理主義者であれば、聖書に「男はお前(エヴァ)を支配する」(「創世記」三-一六)と書かれてあるから、男が支配し、女が支配される状況は、当然だというかもしれない。このようにかつては当然だと思われていた状況、つまり構造的に男の役割が優位に置かれる状況を本書ではジェンダー構造と呼ぶことにする。このジェンダー構造があるがゆえに、女性差別が存在し、ミソジニーが大手を振って闊歩する。我々の第一の属性がヒトではなく、女と男であるかのごとくである。
この構造がいつどのようにして作られたのかについては明確ではない。しかしこの構造が社会にどのような矛盾を生み出しているかについては、はっきりしている。男が優位にあり女が劣位にあること、そしてそれになんの必然性もないことが社会にどのような矛盾を生み出しているか、そして人々の心にどのような歪みをもたらしているかを、ヨーロッパ中世を叙述対象として描き出そうとしたのが本書である。
ヨーロッパの中世を対象とするということは、キリスト教を対象とするということである。キリスト教は性を汚れたものとし、原罪なる観念まで作り上げているのだが、性の汚れをもっぱら女にのみ帰している。キリスト教の土台を築いたイエスには、女を汚れたものと見る思考はない。そうした観念は教父たちが寄ってたかって作り上げ、そしてアウグスティヌスがそれを完成させた。では、教父たちはこのような観念をどこから拾い上げてきたのか、そしてそろいもそろって、どうして彼らはこのような観念にとりつかれてしまったのか。カレン・アームストロングはこのような観念のありようを「キリスト教的神経症」と呼び、「キリスト教の理想は超自然的であり、それがその教義や信仰にほとんど関係のない神経症を生み出すというのはほとんど必然的なのである」と言う。しかしこのような観念は初期キリスト教徒たち、とくに教父たちが自然に作り出さざるを得なかったものだと言ってすませておくわけにはいかない。どうして作り出され、それがどのように後世に影響を与え続けたのかを、明確にしておかなければならないのだ。
(…後略…)
上記内容は本書刊行時のものです。