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韓国・基地村の米軍「慰安婦」
国家暴力を問う女性の声
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2023年4月3日
- 書店発売日
- 2023年3月30日
- 登録日
- 2023年1月31日
- 最終更新日
- 2023年5月2日
紹介
自発的に性を売ったとみなされてきた、米軍基地周辺の性売買女性たち。だが、彼女たちは朝鮮戦争以降、公式的に「慰安婦」と呼ばれ国に管理された存在だった。基地村で生きた一人の女性の証言が、日本軍「慰安婦」制度から連続する国家暴力の実像を映し出す。
目次
推薦の言葉[権仁淑]
証言録の紹介
お願いの言葉
1 はじめに「私が先頭に立つよ」
2 幼い頃「なぜ母さんを殴るの!」
3 母さんに会いに行く道「お父さんが私を犯そうとしたから」
4 人身売買「言わば、私たちは奴隷だったのさ」
5 ヨンジュコル、広灘基地村「この小部屋に閉じ込められ殴られて」
6 文山基地村「空を屋根にして」
7 二度目のヨンジュコル基地村とテチュポル「セコナールを飲んで動脈を切ってから」
8 東豆川の香港ビレッジ基地村「お母さんが死んでから子どももその場所で」
9 米軍慰安婦に対する米韓両国政府の体系的管理
10 平沢の安亭里基地村「自分の体なのに自分勝手にできない世の中」
11 大邱の倭館基地村「ほのかな恋心を抱いていたから、ここまで付いて来たさ」
12 釜山のハヤリア部隊の基地村「ここの姉さんたちは、みんなどこに行ったんだろう」
13 三角地基地村「米兵へのサービスのために、サインをしてくれるわけだよ」
14 二度目の東豆川基地村「どれほどの人がここで死んだことか」
15 二度目の平沢基地村「便所にまで追って来たのさ」
16 議政府のペッポル基地村「あんたは私の分身なの」
17 群山基地村「若い抱え主たちが交代で正門を見張っていたの」
18 東豆川とセウムト「姉さんたちの命は命じゃないのか!」
19 遺言「政府が勝手に私を連れて行かないようにして」
20 エピローグ「誰にでもいいから一度は見せたかったの」
付録 国家暴力としての軍慰安婦制度の歴史
解題 もう一つの歴史――米軍慰安婦[金貴玉]
訳者解説
前書きなど
証言録の紹介
(…前略…)
貞子オンニに初めて出会ったのは、一九九〇年代初めの「議政府のペッポル基地村」であった。貞子オンニは「楊貴妃オンニ」の友だちであった。
家族を扶養するために昼夜休みなく米兵専用のクラブで多くの米兵を相手にしなければならなかった一人のオンニのことを、同僚たちは「楊貴妃」という名で呼んでいた。辛い生活を送っていた楊貴妃オンニのことを「人気のある女」と呼んでいたが、そう呼んでいたオンニたちも、逆にそう呼ばれた楊貴妃オンニも、両方とも切ない思いでいたに違いない。亡くなる日まで私たちと連帯し、私たちを守ってくれた楊貴妃オンニのそばで、貞子オンニは私たちの活動を遠くから眺めていた。
貞子オンニとの二度目の出会いは、一九九〇年代後半に「東豆川の保山里基地村」においてであった。セウムトの共同作業場で働いていたスッキオンニが米兵によって殺害され、目撃者を探すために毎日のように基地村をさまよっていたある日、悪態をついていた基地村の抱え主たちと商人たちに立ち向かってセウムトの活動家たちを庇う一人のオンニに出会った。その人が約一〇年ぶりに出会った貞子オンニであった。
(…中略…)
「性売買防止法」〔二〇〇四年、「性売買処罰法」と「性売買被害者保護法」を包括する法。この法律の制定によって、一九六一年の「淪落行為等防止法」は廃止された〕を請願するために実態調査をしていたときも、貞子オンニは直接設問用紙を抱え、基地村の女性たちに会うために駆けずりまわった。基地村の女性たちをサポートしてほしいと、貞子オンニが直接医師団体へ手紙を送ったことも忘れられない。その団体は一〇年間、基地村の女性たちを支援し続けている。貞子オンニとセウムトの連帯も、今もまだ持続している。
そんなとき、貞子オンニが「今こそ基地村の女性たちは自ら直接行動を始めなければならない」と言い出した。「そうしないと何も変わらない」と。そこで自分がまず「基地村の女性として生きてきた数十年間の経験を話す」と言った。
この証言録は一九六〇年代から一九九〇年代までの、すなわち、「朴正熙政権によって韓国女性たちが米軍慰安婦として動員・管理されていた一九六〇年代と一九七〇年代」、そして「朴正熙政権の米軍慰安婦政策が全斗煥政権によって維持されていた一九八〇年代」を経て、「基地村を中心に国家間人身売買が拡大されていた一九九〇年代」までの数十年間、基地村で基地村の女性として生きてきた女性たちの物語である。
まさに、最初の基地村の女性による証言録なのである。
(…中略…)
貞子オンニは「基地村の女性たちの生活をこの世に知らせるために証言を決めた」と言う。今まで基地村に関する資料や書籍がなかったわけではない。むしろ、それらの資料は歴史の記録と解釈として、客観性と普遍性が認められている。基地村の女性たちに関するメディア報道も少ないわけではない。とりわけ、基地村の女性が非常に残酷な米軍犯罪の被害者になったとき、メディアは一層積極的であった。もちろん、貞子オンニもそれをよく知っている。基地村について書かれた本や記事であれば、何日かかっても虫眼鏡をかけて読み抜いた。
しかし、貞子オンニは「基地村の問題が今もまだ知られてない」と話す。「私が理解している貞子オンニの考え」は、次の通りである。
第一に、米軍慰安婦の存在を知らせるべきである。
「日本軍慰安婦のオンニたちが経験したことは本当に惨たらしい。そのオンニたちのことは必ず解決されなければならない。なのに、なぜ米軍慰安婦について人々は話さないのか。米軍のために、外貨獲得のために私たちを犠牲にしたことはみんな知っているはずなのに、どうして誰もそれについて話さないのか。日本軍慰安婦のオンニたちは外国政府にやられ、私たちはアメリカ政府にやられた。何より情けないのは、私たちは韓国政府にもやられたことだよ」
これが証言するに至った貞子オンニの最初の理由である。
第二に、基地村の歴史を記録した人々は基地村の女性ではない。
基地村の女性たちの立場から基地村の歴史がきちんと記録されることはなかった。これは階級、性別、権力についての問題提起である。したがって貞子オンニの証言は、基地村の女性の歴史についての記録だけでなく、葛藤と差別に対抗する「基地村の女性たちの闘争」でもある。
第三に、基地村の女性たちにとって社会は今も変わっていない。
歴史が正しく知られていないからである。貞子オンニによる「知らせる」という行為は、単純に歴史を記述することだけではなく、世の中を変える政治的行為、「変革」そのものである。
第四に、確固たる連帯がない。
基地村の女性たちと新しく連帯をしようとする人たちがあまり現れず、既存の活動家たちや組織さえも行動を始めようとしない。貞子オンニはその理由について、基地村の女性たちの話を直接聞くことができずきちんと知ることができなかったからであると言う。ある問題について「よく知っている」のであれば、その問題を解決するために乗り出し、積極的に連帯するに違いないと彼女は信じている。
「貞子オンニ」と「貞子オンニの同僚」たちの苦痛は今も続いている。「日本軍慰安婦」「基地村の女性」、そして「性売買の被害女性」の苦痛は現実である。この苦痛を止めるためには、まず基地村の女性が語り、それを国民たちが聞き、基地村の女性の苦痛を知ることから始めなければならないと貞子オンニは考えている。その過程で基地村の女性たちは自ら治癒することができるし、その過程で変わっていく人々と社会を通して、基地村の女性たちの心の傷が治癒されると彼女は信じている。
このような理由から、貞子オンニは自分の記憶を蘇らせることを通じて社会に知らしめることを決心し、「まずは私が先頭に立つ」と声をあげた。そして、言葉では表せないほどの証言・再経験の苦痛を黙々と耐え抜いたのである。証言は終わったが、果たして貞子オンニは自らが望んでいた変化が始まるのを見ることができるだろうか。
(…後略…)
上記内容は本書刊行時のものです。