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アイヌと松浦武四郎の蝦夷地友情探査物語
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2023年6月1日
- 書店発売日
- 2023年6月5日
- 登録日
- 2023年4月24日
- 最終更新日
- 2023年5月29日
紹介
北海道の名付け親・松浦武四郎。
江戸末期、未開の地だった蝦夷地を6度訪れ、先住民族のアイヌたちと一緒にくまなく見て回り、地名を書き込んだ詳細な地図を作りあげた。
そんな武四郎の生き方をアイヌたちとの友情を中心に描く。
目次
発刊によせて 広島大学名誉教授 高崎禎夫
松浦武四郎の略年譜
武四郎十六歳の家出
蝦夷地探査一回目
武四郎は三重県人/アイヌ人との出会い/アイヌを救え/尾藤水竹の妻
蝦夷地探査二回目
高島の蜃気楼/樺太のトナカイ/アイヌは蝦夷地最古の住民/頼三樹三郎と百印百詩会
蝦夷地探査三回目
火の玉? 海幽霊?/エトピリカ/個人探検の限界
蝦夷地探査四回目
蝦夷地御用御雇/武四郎の浮腫病
蝦夷地探査五回目
開発よりも人命/クウチンコロ/鍬/耳を傾けてくれるだけでも有難い
蝦夷地探査六回目
アイヌへの同化教育/死んでからも尽くす心/もう、会えなくなるかも知れない
武四郎第二の人生
妻と娘と北海道/北海道命名/最愛の娘一志の死/武四郎の最後の設計図
おわりに
参考文献
前書きなど
発刊によせて
広島大学名誉教授(経済統計学)高崎禎夫
「銀の滴降る降るまわりに
金の滴降る降るまわりに」
これは、知里幸惠さん編訳の『アイヌ神謡集』の最初の詩句です。私が見ているのは、「昭和五十三年(一九七八)第一刷発行」の岩波文庫です。この本の底本は、大正十二年(一九二三)に出されました。
幸惠さんにユーカラを書くよう勧めたのは、十五歳の時出会った金田一京助先生(東大教授、アイヌ語研究者、文化勲章受章)です。ユーカラはギリシャ・ローマの叙事詩に匹敵する、と讃えました。泣いて喜んだ秀才の幸惠さんは、幼児のときからその膝に抱かれて育てられた、最高のユーカラの伝承者だった祖母(モナシノウク)さんと、彼女を養女として引き取ってくれた伯母(金成マツ)さんから聞いて覚えていたユーカラを、その後、独学で学んだローマ字で書き、それを日本語に訳したノートを金田一先生に送りました。そして、大正十一年五月に金田一先生を頼って上京しました。先生宅では、先生にアイヌ語を教え、先生からは英語を学びつつ、ユーカラのノートの最終校正まで終えた直後、九月十八日に、持病の心臓病が悪化して、急死、十九歳でした。まさに「薄命の才媛」でした。
お墓は、金田一先生によって、夏目漱石や小泉八雲も眠る東京雑司ヶ谷の墓地に、建てられています。
私はここで、わが国の『古事記』のことを思うのです。
アイヌ民族には、字がありませんでした。ですが、わが民族も、『古事記』三巻が出来上がる和銅五年(七一二)頃までは、字がありませんでした。『古事記』は、皇勅により、稗田阿礼が誦む神話や帝紀・伝説・歌謡を、太安万侶が記録したものですが、その字は、訓を主にしたとはいえ、外国の字、漢字でした。(かなの出所も漢字です)幸惠さんはローマ字で、安万侶さんは漢字で、でした。
金田一京助先生が、その英才を見出し、その進路を導いた人物がもう一人いました。
それは、知里幸惠さんの六歳年下の弟の、知里真志保さんです。
私は、いま、藤本英夫著『天才アイヌ人学者の生涯 知里真志保評伝』〈講談社、昭和四十五年(一九七〇)発行―北海道新聞に五十四回連載〉を見ています。
知里真志保さんは、金田一先生の勧めに従って、猛勉強をして、昭和五年(一九三〇)に、東京の日本一の旧制一高に「百五十人中十二番」で入り、次いで、東大を経て、アイヌ言語学研究者として、昭和十八年(一九四三)、北海道大学に赴任しました。北海道大学文学部教授・文学博士! その『分類アイヌ語辞典』三巻は、「朝日文化賞」を得、アイヌ語の本格的研究として海外でも高く評価されています。昭和三十六年(一九六一)、持病の心臓病のため永眠、享年五十二歳でした。そのすてきな墓碑が、友人たちによって、札幌市の南西藻岩山の中腹に、建てられています。
これまで、私は、主に右の二冊(『アイヌ神謡集』と『天才アイヌ人学者の生涯』)によって、日本人の中には、アイヌ人をいじめた人もいたでしょうけれど、アイヌ人を讃えた人(金田一京助先生)もいた、アイヌ人自身の中でも、その言語と歴史を示す書物を表した才媛(知里幸惠さん)、国立大学の教授になった天才学者(知里真志保さん)がいたことを知って、「日本の誇り」と思ってきました。
そして、私にとっての、北海道とアイヌについての第三の名著が、私の敬愛する友人、大島和子さんのこの『アイヌと松浦武四郎の蝦夷地友情探査物語』でした。
不勉強の私は、この「北海道の名付け親」たる、「松浦武四郎」のお名前さえ、これまで知りませんでした。読んで、教わることばかりでした。
松浦武四郎さんは、一八一八・二・六―一八八八・二・十、享年は数え年で七十一歳でした。先述の金田一京助先生は、一八八二―一九七一、享年八十九歳ですから、武四郎さんが亡くなられたとき、金田一先生は、まだ六歳でした。しかし、金田一先生は、昭和三十五年(一九六〇)、七十八歳のとき、アイヌに学んだ先駆者として敬意を表して、松阪市の武四郎の生家を訪れ、遺徳を偲んで、お庭に桜(ソメイヨシノ)をお手植えされたそうです。大島和子さんからお借りした別の本の中で、その花盛りの大樹の写真を見て、私は、心が温まりました。
松浦武四郎さんは、沿岸部だけを測量した伊能忠敬・間宮林蔵よりも、偉いと思います。武四郎さんは北海道の内陸部までの「探査者」、そして「出版者」でした。それまで空白だった内陸部の、山、川、湖沼などに加え、そこに住むアイヌ人の暮らしぶりに身近に接しつつ、その「アイヌの人々二七〇名から聞いた」なんと「九八〇〇に及ぶアイヌ語地名」を記載した、全二十八冊の地図を完成されました。
ここで、私が殊に興味を持ったのは、その調査の「携帯用筆記用具」の「矢立」の筆で記す大型の帳面の、「野帳」なる呼び名です。辞書で見ると、これは、江戸時代の「検地の手控え」でした。松浦家は「地士」でしたので、納得しました。
武四郎さんは、六回も北海道を踏査されましたが、その目的は、本来は、外敵から日本を守るためでした。さらに、迫害されているアイヌを救うことが加わりました。そこで、武四郎さんは、行く先々の村で、例えば、取り上げられた「十三挺の鍬」を再三にわたって取り戻す力添えをするなどして、アイヌの皆さんを助けました。そこで、武四郎さんは、「ニㇱパみてぇに賢くて、優しいトノはどこにもいない!」と言われるほど、アイヌの皆さんから慕われるようになりました。アイヌ救出のための著述も多く残しました。そして、その後、アイヌをいじめる側に組することをいさぎよしとせず、幕府に「御雇御免願」を出そうとし、また、明治政府には本当に「開拓判官辞職願」を提出して受理されました。
私は、これらすべてに感動しました。
また、松浦武四郎さんが「北海道」という名の「名付け親」であることを教わりました。真ん中の「カイ」に、深い意味が込められていることを知りました。
また、二回目の探査のときには、樺太まで行って、トナカイを見ることができて、その「トナカイ」という言葉が、アイヌ語であることを教わりました。急いで、手許の辞書で確かめました。その通りでした。
私は、松浦武四郎さんがこの国の有数の名士と友人関係にあったことを知って、驚嘆しました。頼山陽の息子さんの、頼三樹三郎と「一日百印百詩の会」! 私の今住む広島には、頼山陽が『日本外史』を書いた記念館もあり、生地の竹原も近く、また、私のいた広島大学には、ご子孫の頼教授もおられました。
「この国の未来を共に語った吉田松陰」には、もっと驚きました。吉田松陰先生は萩の「松下村塾」の開祖たるのみならず、私のいた広島陸軍幼年学校の教育のシンボルでした。「身はたとへ武蔵の野辺に朽ちぬとも とどめおかまし大和魂」、「親思ふ心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらん」が、忘れ得ぬ辞世の歌です。
ほかにも、松浦武四郎さんの「十六歳の家出」から始まる、旅行好きには感服しました。富士山にも登られています。私の故郷の、四国の八十八ヶ所めぐりもされています。西郷さんのお墓参りのために、鹿児島にも行かれました。
亡くなる前の三年間、毎年、三重県・奈良県・和歌山県にまたがる、空海(弘法大師)も未踏の、大台ヶ原山に、三度も登られています。ここには分骨された、松浦武四郎さんの「追悼碑」が建立されているそうです。
おわりに
みなさん、最後までお読みいただき、ありがとうございます。
私は平成十年(一九九八)に仙台出身で、生長の家学生時代の先輩鈴木邦男氏が札幌に来られた時、「修学旅行で行ったポロトコタンへ行きたい」と言われて、アイヌ民族博物館(ポロトコタン)に初めて行きました。そこの売店で、更科源蔵氏の本、『北海道と名づけた男 松浦武四郎の生涯』と出会いました。鈴木氏に聞きました。
「北海道の名づけ親の松浦武四郎を知っていますか」
「いいや、知らない」と鈴木氏はいいました。
月に三十冊から五十冊の本を読み、博学多才の鈴木氏でも知らない松浦武四郎とは、いったい、どんな人物なのだろうと興味を持ちました。その後、北海道出版企画センターの本を読むと、北海道はアイヌと松浦武四郎の友情探査の歴史があり、地名はアイヌ語で難解なのだと理解しました。更に、松浦武四郎氏が言った、「自分達の様な、現場を見るものでなければ、事実関係は分からない」との言葉に、私の長崎にいた体験、育ったオホーツク紋別の四季、仕事の体験が構想へと繋がりました。
私が仕事で体験したこととは、メナード化粧品訪問販売の仕事で、全道を歩く機会がありました。ある時、苫小牧の店長から、近隣の店長の息子さんが亡くなったと連絡があり、ご自宅を弔問いたしました。そこで、店長さんがアイヌに嫁いでいたことを初めて知りました。
息子さんの死因は自殺でした。話を聞き進めていくと、息子さんは和人の女性と結婚して二人の女の子がいましたが、和人の父親がアイヌとの結婚を反対していて、嫁と子どもを連れ去ったということでした。親である店長は怒りもあらわさず、告訴もしませんでした。淡々と話す店長の姿に私は、これはよくあることなのかもしれない、と胸の痛みを感じました。アイヌの間では噂はすぐに知れ渡り、葬儀ではどこからともなく、大勢の人が訪れたということです。
それから松浦武四郎の本を読み深めていくと、(松浦武四郎の探査があったから、私たちは今北海道に住んでいられるのかもしれない)と、当たり前だと思っていた郷土への疑問がわきました。
その後、江戸博物館へ三度行き二六四年続いた江戸時代を学び、国会図書館で北海道の事を調べ、また、「北の企画」倉増充啓さんのご案内で、東法人会の方々と三重県松浦武四郎記念館に行きました。記念館に入ると、「東西蝦夷地山川地理取調図」の北方四島を含む、九八〇〇の地名と詳細な山・川の大きな地図の完成度に、昔からアイヌ民族が大切にしていた、蝦夷地だということを確認できました。更に、法人会女性部会全道大会に倉増氏の手配で、講師として松浦武四郎記念館館長の山本命さんにご講演をいただきました。その後、倉増氏から『石狩日誌』の本を頂きました。
また、ノンフィクション作家合田一道先生からは、松浦武四郎直筆名簿など、貴重な資料を頂きました。その後、四国の千覚寺で、頼山陽氏(頼三樹三郎父)の碑にお参りした時、松浦武四郎氏には、勤王志士の吉田松陰と頼三樹三郎の大切な友情があり、武四郎氏が蝦夷地六回の探査をしているうちに、二人との壮絶な運命の分かれ道があったことを思い出しました。
松浦武四郎氏は大河ドラマに相応しい、題材だと思います。
北海道人気NO1の大泉洋さんに主役をお願いできれば嬉しいです。
この本を書くにあたり、広島大学名誉教授高崎禎夫先生には、「発刊によせて」を書いて頂き、「この本は良い本だから、丁寧に作ろう」とアドバイスを頂きました。
イラストは橋爪彩さんのご紹介で、きたゆきさんに描いていただきました。
柏艪舎の可知佳恵さんには編集・校正をして頂き、さまざまな方にもアドバイスを頂き感謝しています。
みなさまの松浦武四郎氏への思い、北海道への思いのお陰で、駆け出しの私の本ができました。
本当にありがとうございました。
最後になりますが、平成十年にポロトコタンに一緒に行かせていただいた、鈴木邦男さんが、二〇二三年一月十一日に七十九歳、誤嚥性肺炎でお亡くなりになりました。
鈴木邦男氏は明るく優しくお茶目な性格でした。河合塾講師に従事しながら、月に三十冊から五十冊の本を読み、生涯猛勉強をしました。そして、一水会活動を通して言論の覚悟をもって、価値観の違う人と積極的に話し合い、多くの人から愛され惜しまれた立派な国士でした。「吉田松陰の本は二百冊読んだ」と言った、鈴木氏の本の中から、三浦実著・鈴木邦男解説の、『FOR BEGINNERS 吉田松陰』を参考文献として引用させていただきました。
ご生前のご厚情に 心から感謝申し上げ ご冥福をお祈りいたします。
感 謝
二〇二三年五月 吉日 大島 和子
上記内容は本書刊行時のものです。