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古代文明と縄文人 澤田 健一(著/文) - 柏艪舎
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古代文明と縄文人 (コダイブンメイトジョウモンジン) 世界に広がる日本の夷 (セカイニヒロガルニホンノエビス)

歴史・地理
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発行:柏艪舎
発売:星雲社
4-6
重さ 300g
価格 1,500円+税
ISBN
978-4-434-30144-5   COPY
ISBN 13
9784434301445   COPY
ISBN 10h
4-434-30144-6   COPY
ISBN 10
4434301446   COPY
出版者記号
434   COPY
Cコード
C0095  
0:一般 0:単行本 95:日本文学、評論、随筆、その他
出版社在庫情報
在庫あり
書店発売日
登録日
2022年2月7日
最終更新日
2022年4月20日
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紹介

『縄文人とアイヌ』のシリーズ第三弾となる今作の眼目は、“世界の古代文明発祥には日本民族が関わっている”という推論にある。
荒唐無稽と感じられる向きが多かろうと、世界中に日本の縄文人の残滓は紛れもなく存在している。
本書は常識への挑戦の書であり、埋もれた真実への探求の書である。

目次

はじめに

序章一  日本民族の誕生
序章二  月と太陽

  一  カリマンタン
  二  バヌアツ
  三  オーストラリア
  四  ブラジル
  五  エクアドル・ペルー
  六  マヤ
  七  イースター島
  八  アメリカ
  九  アラスカ
  十  シベリア
  十一 シュメル
  十二 ヨーロッパ
  十三 インド
  十四 マダガスカル
  十五 エジプト
  十六 殷
  十七 匈奴
  十八 宋
  十九 朝鮮
  二十 まとめ

ささやかな考察
 考察一 古代イスラエル・キルギスそしてスキタイ
 考察二 北方進入説の幻想
 考察三 コメの国・日本
 考察四 なぜ文字を持たなかったのか
 考察五 ギリシャ神話
 考察六 世界の地下洞窟
 考察七 夷と弓
 考察八 シャーマン
 考察九 柱
 考察十 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

あとがき

語句紹介
主な参考資料

前書きなど

 はじめに

今回の著作はあくまでも推論の書であり、断定することはしない。そこでいきなり推論を先に書くと、「世界の古代文明の発祥には日本民族が関わっているのではないだろうか」というものである。もうこの時点で、この先を読む気をなくした方もいるだろう。中には、この著者は頭がおかしいと思った方もいるだろう。実は、筆者も以前はその一人だった。この手の話は、どうしてもオカルトにしか聞こえないからである。それと同じ類のことを書くのだから、完全に拒否されても、筆者には理解ができる。
だが、少し我慢してお付き合いいただきたい。まずは、日ユ同祖論というものがある。ユダヤの一支族が日本にやって来て、日本民族の祖となったというものである。また、忽然と姿を消したシュメル人こそが日本民族の祖先となったという人もいる。ギリシャ神話と日本神話にはまったく同じストーリーのものがあり、それはギリシャから日本に伝わったのだという人もいる。南洋の島々には、日本神話の海幸山幸と同じ構成をもつ伝承が残っており、それは南洋の島々から日本に伝わったとされる。古代エジプトの壁画と日本の壁画には偶然ではありえない同じ構図のものがあり、これも古代エジプトから日本に伝わったとされる。また、アイヌ文化は北方民族の文化と同質であり、したがって大陸から入って来た北方民族が北海道に住み着いて、現在のアイヌになったと考える人が多い。さらには、匈奴研究の第一人者である江上波夫先生は、匈奴と日本民族の非常に強い共通性を指摘されたうえで、騎馬民族が日本列島に渡って来て征服王朝(大和朝廷)を樹立したのだと主張された。
この他にも多くの事例があり、それは本文中でご紹介していくが、ちょっと考えただけでも疑問を感じられないだろうか。なぜ、世界中の人々が日本にやって来たのだろうか。あるいは日本に技術や文化や伝承を、なぜ伝えたのだろうか。それではまるで、日本は古代世界の首都ではないか。だが、そんなことはありえないのである。
例えば、本章で説明するが古代エジプト人には本格的な外洋航海技術がなかったのだ。大型船を持っていても、それはナイル川を上下したり穏やかなエーゲ海を渡ったりするものである。アフリカ大陸のすぐ近くにあるマダガスカル島にすら古代エジプト人は上陸できていない。マダガスカルに初めて人が上陸したのは今から二三〇〇年前頃だとされていて、その人々は東南アジアからやって来たと指摘されているのだ。マダガスカル北部の岩陰からは、西暦二五〇年から五九〇年頃の陶器が発見されている。東南アジアを拠点に持ち、長距離外洋航海ができる、そしておそらく陶器を持った人々とは日本民族しか条件を満たさないだろう。ではなぜ、はるか西の海の先に陸地があることを知っていたのだろうか。実はちゃんと、その理由があるのだ。それらの事実を本文中で明らかにしていく。
つまり、世界中から日本にやって来たとされていたのは、あべこべで、日本民族が世界中に出て行ったのである。皆さんは、日本民族が三万八〇〇〇年前から磨製石器を使っていたことをご存知だろうか。この刃部磨製石斧は、日本各地から既に一〇〇〇点以上が出土している。日本の三万八〇〇〇年前は旧石器時代と分類されているが、新石器時代の道具である磨製石器をもうその時点で使い始めているのである。三万年以上前に日本は、石を研磨する技術をもっていたのだ。シュメルやユダヤが日本人の祖とするのは、時間軸が全く成り立たないのである。日本文明のほうが、ずっと先行しているのだ。
ヨーロッパが新石器時代に入り、磨製石器を使い始めるのは、せいぜい一万年前なのであり、それは日本から二万八〇〇〇年も遅れをとっている。あまりにも時間の単位が大きすぎて実感がわかないことだろう。それは西暦元年から現在までの歴史を、一四回くり返してやっとヨーロッパは日本に追いついたと言えるほどの時間差なのだ。後期旧石器時代(約四万年前から一万年前頃)の日本の遺跡数は、世界の中でも突出して多いのである。日本の古代史は世界史とは比較にさえならないほど濃密なのだ。
そして、東南アジア方面から丸木舟に乗って、世界有数の強い海流を乗りきって日本列島に渡って来た強靭な人々が、我々日本人のご先祖様なのである。日本上陸後すぐに、日本各地の産物を調査し、その地では入手できないものを舟で輸送して各地で利用し始めている。伊豆諸島の神津島産黒曜石は、伊豆半島の見高段間遺跡に海上輸送され、そこから各地に運ばれていた。つまり、日本民族は太古の昔から外洋航海ができて、それも正確に目的地を往復する航海技術があり、広範な輸送ネットワークを持っていたのである。
しかし、日本人はそうした事実に気が付かず、ずうっと日本は遅れた文化だと思い続けてきた。最近読んだ、田中英道先生の『日本国史の源流 縄文精神とやまとごころ』(育鵬社)という著書の中に面白いエピソードがあったので、ご紹介させていただく。それは司馬遼太郎さんがケンブリッジ大学の日本学研究会で行なった発言とのこと。「日本列島は、太古以来、文明という光源から見れば、紀元前三〇〇年ぐらいに稲を持ったボートピープルがやって来るまで、闇の中にいました」と述べたという。日本人自身がこうした発信をしているからこそ、海外の学者たちは日本の真実を理解できないでいるのだろう。
司馬遼太郎さんのような史観は極端なものであるにせよ、日本人の傾向としては、多かれ少なかれこうした見方が主流になっていると思われる。だからこそ、「文明は大陸から日本に伝わったのではなく、日本から世界に伝わったのだ」と言われると、条件反射的に拒絶してしまうのである。もし、読者の中にもそうした見方をされている方がいるとするならば、いったん今までの(誤った)常識をリセットして読んでいただけるとありがたい。
そうして、まっさらな状態で向き合ってくだされば、今までとは全く違う世界が見えてくるはずである。日本文化の始まりは恐ろしく古く、そしてとても高度なのだ。そうした事実を一つ一つひろい上げて説明していく。それを日本人自身が知らなければ、世界の古代史は永遠に闇の中から抜け出してこられないであろう。





 あとがき

身も蓋もない。これが本当なのであれば、日本民族だけで世界中の古代文明が誕生したことになる。エリアーデはシャーマンの起源を日本とはしていないが、彼はシャーマニズムが世界の宗教にも影響を与えていると言っている。これに関して柳田國男先生は『方言覚書「阿也都古考」』(創元社)において非常に興味深い指摘をされている。それは十六章で述べた日本の風習アヤツコの「×印」についてである。
先生は、「外国にも同じようなシンボルはあった。誰でも知っているのは基督教の十字、及びこれと必ず関係があろうと言われる仏教の卍字なども、今ではどういうわけであの通り大切にされているのか、諸説紛々という状態であるが、此方(注・日本)のアヤツコがもし詳しくわかったら、事によると遠い上代に遡って、意外な新しい解説が付くかも知れない。しかもあちらの学者たちがもう久しくかかって調べていることだけを、編訳して受売して見たところで始まらない。そんな事をする時間があるなら、将に消えていこうとしている我々の同胞の、自分たち固有の十文字に対して、大昔以来抱いていた感覚を、片端なりとも採集して置く方がよいのである」と記されている。
はっきりと日本の縄文信仰がキリスト教や仏教に影響を与えているとは書いていないが、その可能性を示唆するものであろう。アヤツコの「×」には魔除けの意味があるが、キリスト教の「十字架」にも魔除けの意味があるだろう。仏教(卍)では輪廻転生を説くが、日本では縄文時代から輪廻転生を強く信じていたようだ。エリアーデが、シャーマニズムが世界のさまざまな宗教に影響を及ぼしていると、かなり断定的に論じていることと併せて考えると、縄文信仰が世界宗教の誕生にも関わっているのかもしれない。
ここで、十字形土偶に触れておきたい。三内丸山遺跡からは、高さが三二センチもある、縄文中期の十字形土偶が出土している。形は正に十字架なのだ。それは、完成品としては最大の十字形の板状土偶であり、首の部分で二つに割られ、九〇センチ離れた場所で発見された。本州北部の板状土偶は、首や腰の部分で折られており、何らかの宗教的な意味合いをもって使われていたと考えられる。モーゼがエジプトを脱出するより少なくとも一〇〇〇年も前に、青森には十字架と同じ形の十字形土偶があったのだ。
また、クリスマスツリーについても見ておきたい。ジョージアのクリスマスツリーは「チチラキ」と呼ばれていて、独特な形をしている。そしてその形はアイヌの「イナウ」やカリマンタンの「削りかけ」とまったく同じなのだ。それは日本神道の「御幣」なのである。つまり日本とジョージアには神事に関する同じ物があり、それがキリスト教のクリスマスツリーとなっているのだ。
だが、そんなことはありえない、と思われることであろう。しかし、はっきり言う。そんな何の科学的根拠もない先入観をもって見てきたからこそ真実が見えなかったのである。もっとも重症なのが「日本は遅れた文化である」という強い思い込みである。冒頭の司馬遼太郎さんの発言がそれを的確に表している。こうした非科学的な思い込みで話す人は、何を話しても真実は見えてこないであろう。
そうではなく、予断を捨てて、実際に出土する遺跡や遺物の意味に向き合い、過去の学者が指摘してきたことを真剣に考えることが必要である。当然のことではあるが、筆者もはじめからこのような結論をもっていたわけではない。しかし、事実を突き合わせていくとこうとしかならないのである。もちろんはじめは大いに戸惑った。本当にそうなのか何度も疑った。それでもやはりこの結論にしかたどり着かないのだ。本論であれば世界の古代文明が綺麗に説明できるのである。
そうした運命を決定付ける道具を、日本民族は三万八〇〇〇年前に手に入れた。それは刃部磨製石斧、簡単に言うと石斧である。これによって大木を切り倒し、丸木舟を造れるようになった。この発明が大転換点となったのである。それまでの筏とは違い、体力次第ではあるが海上で高速が出せるようになったのだ。
日本神話ではそれを「天の磐船」と呼ぶ。その空を飛ぶ船、つまり飛ぶように速い船をつかって外洋航海を行なっていたのである。日本近海の強い海流を乗り切って進むためには、飛ぶような高速船が必要だった。それを手に入れた日本民族は、海外を自由に行き来していたのである。本文のくり返しにはなるが、西洋人が本格的な外洋航海を行なうのは一五世紀の大航海時代になってからのことなのだ。ヨーロッパからほど近いアフリカ南端の喜望峰発見でさえ、一四八八年になってからのことである。ところが、日本民族の大航海時代は三万八〇〇〇年前にはじまっているのだ。したがって古代世界において、世界的な普遍を可能にできるのは「天の磐船」を持っている日本民族しかいないのである。
ところで、アフリカ原産のヒョウタンが、約一万年前のアメリカ大陸に伝わっていたことを前述した。実は、同じく約一万年前の日本にも伝わっているのだ。滋賀県大津市の粟津湖底遺跡から、約一万年前のヒョウタンが出土しており、なぜアフリカ原産の物が日本にあるのか謎とされてきた。もちろん、海流に乗って流されてくることなどない。つまり、約一万年前にアフリカ大陸を発見した人々は、アフリカにしかないヒョウタンを日本に持ち帰っているのである。おそらく、アフリカ発見の報告に戻って来たのではないだろうか。
ただ、最後に少し修正を加えさせていただく。本書では流れを鮮明にするために、日本を起点として北側、南側、東回り、西回りというような区別を書いたが、それらは決して孤立したものではない。縄文日本は北から南まで、全国的なネットワークがあったのだ。それは産物や製造物が日本全国を行き来していることから分かる。したがって、地域的に時間差や濃淡があるにしても日本全国にはほぼ同じ技術が広がり、またタイムラグがあったとしても情報共有ができていた。だからこそ、北海道のアイヌの伝承には南方系のチリやベトナム、ニカラグアのような海外の話が伝わっているのである。
つまり、古代文明は日本から発信されたものなのであり、そして世界各地に日本の夷がいたのだ。だからこそ「夷」には「根本」という意味があるのだろう。「世界中の古代文明において、日本の夷がそこにいた」、これ以外に全体を成立させる条件は見つからない。ただそうは言っても、これまでの歴史観が完全にひっくり返ることになる。なかなか受け入れられないのは十分すぎるほどよく分かる。それでもなお、この答えしかないのだ。
ガリレオは地動説を発表すると、頑迷な中世世界において宗教裁判にかけられた。裁判自体はガリレオの敗訴であったが、伝説によると彼は『それでも地球は動いている』と言ったとされる。そして筆者も言う『それでも日本の夷はそこにいた』。一〇〇年後、この歴史観が世界の古代史観になっていることであろう。
ここまで読まれても、「上手にこじつけるなァ」と思われる方もいることであろう。それはそれで結構である。ただ、世界中のどの考古学者も、(日本民族のことは考慮に入れていないのかもしれないが)古代文明を興した民族は全く見当がついていないのだ。「この古代文明を創った民族がどこから来たのか全く分からない」「灌漑農耕をヨーロッパにもたらした民族など分かるはずがない」「すべての推論が崩壊した以上、考えることすら止めた」という状況なのである。本書の『古代文明と縄文人』論でしか、古代文明の発祥を説明できる論はないはずである。だからこそ、その時点でこれが答えだと思うのである。筆者は『それでも日本の夷はそこにいた』と考えている。
さて今回の著作に関しても多くの皆様のご協力をいただいて成り立っている。一つ一つの考察も、過去に多くの考古学者が既に考察されていることがほとんどである。筆者はそれを綺麗に組み合わせて論理立てただけである。その過程においても、多くの皆様のご助言を参考にさせていただいている。そうした皆さまお一人お一人に感謝の言葉を申し上げます。そして、毎回お世話いただいている担当の山本哲平様はじめ、柏艪舎の皆様への感謝を申し上げてあとがきとする。

  令和三年初冬

澤田 健一

著者プロフィール

澤田 健一  (サワダ ケンイチ)  (著/文

昭和39年(1964)札幌市生まれ。同志社大学工学部卒業。
既存の枠にとらわれず、歴史・考古学を独自に学ぶ。
思いつくまま読み・調べ・歩き・聞き・見ることを旨とし、文献やデータを忠実に読み解き歴史の事実に迫ることを目指している。
縄文アイヌ研究会 主宰。

上記内容は本書刊行時のものです。