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内村剛介著作集 第6巻
日本という異郷
完結
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2012年3月
- 書店発売日
- 2012年4月20日
- 登録日
- 2012年2月28日
- 最終更新日
- 2015年12月10日
紹介
[日本/ジャパン]との確執。著者が「シベリア」から持ち帰った苛酷な尺度に照らすとき、戦後日本、及び日本知識人はどのように映じたか。
●近くて遠い〈ジャパン〉への眼差し
著者がものを書く究極の関心は言うまでもなく日本そのものにある。しかし、著者にとって眼前の日本は、あえて「ジャパン」と呼んで或る距離を置かざるを得ない、近くて遠い存在でもある。その日本という風土に生まれた湿潤な思想と、その思想を体現する日本知識人に対する冷徹鋭利な批評を(情況論)として発表年代順に収める。
●「観念の美」を峻拒する――戦後日本知識人批判
著者にはもともと戦後日本の論壇をリードした知識人への本質的な嫌悪がある。「もはや戦後ではない」と喧伝されはじめた頃に帰還した故国で、著者が目撃したのは、社会主義ソ連に膝を屈する戦後左翼の頽廃と、「観念の美」の前に遭難していく知識人たちの無残な姿であった。例えば「有限であるべき闇を無制限に広げる」埴谷雄高批判はその一例である。一方、二葉亭四迷をはじめとする、青春時代から著者の愛好してきた日本の作家たちの肖像を付し、〈情況論〉〈知識人論〉〈作家論〉の三部構成とした。また著者の中国に関する論考をもここに含める。
目次
目次
Ⅰ
1960~1969
安保闘争の"総括"―『民主主義の神話』
安保闘争のアイデア・マンへ―開高健『過去と未来の国々』
情況にとってまことに残酷なこと
頽廃への黙契
流亡と自立
ジャパンの"反抗的"ペット
敗残兵の思想
市民―群れをなさぬもの
「順法」と「革命」の逆説
駈けくらべする真夏の昼の奴隷たち
いま何が問われているのか?―吉本隆明への手紙
明るい廃屋
1970~1979
ノンポリ・ラジカルは定着する
国家は棄民する
明るい暗殺者の群れ
戦中・戦後・戦無
反ディアローグ・"反近代"
ジャングルとジャパンをつなぐニヒリズム
時間ニヒリズムと日本人
戦後思想の「勝者」たち―「私」と「公」を繋ぐもの
名なしの時代の鬼子たち
雄々しく哀しい亡命
宗教・人間・国家
「ジャリクラシー」とデモクラシー
巨大で空虚な中枢の出現―戦後三十一年目の夏に
亡国について
戦前、戦中、戦後、戦無ということば
1980~1989
八月の青空の雲は……―不戦の念仏が戦争を招く
ワレサと「わるさ」
「ただの人」の勇気を
文学メダカは群れたがる―「署名します。ただし」
『連帯』に連帯するとは何か
憲法第九条断想
忘却の構造―追憶の儀式と日本人
異常増殖をとげる「ジャリクラシー」
ゴッド・ブレス・クリミナル・ソシアリズム―平成元年・情況論
Ⅱ
河上 肇―或る河上肇拾遺 /秘密活動(コンスピラシー)はやはり悖徳である
埴谷雄高―呪文の思想家を拒否す /ニヒリストの饒舌
竹内 好―牛刀好考―追悼・竹内好/魯迅に屈する竹内好
村上一郎―孤立と狂気―『明治維新の精神過程』 /ゾルレンの"フェチシズム化"の根源/村上一郎追悼
松田道雄―胸に拠る知的アリストクラシー―『ロシアの革命』 /著者への手紙―『革命と市民的自由』
清水幾太郎―「人間の自然」への回帰/ついにユリイカは訪れず―清水幾太郎氏を悼む/"ヴレメンシチク"の無思想圏
鮎川信夫―戦中派の"実存的焦燥感"―『歴史におけるイロニー』/きまじめなざれごと―鮎川と吉本の「運命」/雑でない雑文―『私のなかのアメリカ』/「時代の勝負師」の本領―『時代を読む』
吉本隆明―戦争と吉本隆明/傍白としての所感―司会をつとめつつ/"下等な真理・高等な欺瞞"―サブ・カルチャー風に
江藤 淳―徒党の検閲―江藤淳氏の敗北主義
小山俊一―その存在論―インデックス化の試み
谷川健一―日本民俗学は「誇りの学」/谷川健一のメタモルフォーゼ―日本地名研究所設立まで
Ⅲ
二葉亭四迷―二葉亭四迷/愚図・実業の系譜/二つの「落葉」
岩野泡鳴―パロディ・リアリスト
芥川龍之介―未熟と成熟―上目づかいの『支那游記』
菊池 寛―日本文学の正系に属す/菊池寛の"正直"
正宗白鳥―表現へのこだわり―正宗白鳥(一)/異いはその狂いざま―正宗白鳥(二)
北條民雄―自然の向う側を―北條民雄(一)/柊の貌に―北條民雄(二)
島木健作―ウソの哀感
岡本かの子―愛執の色
内田百―幻想は宿命
志賀直哉―内村鑑三との邂逅と別れ
谷崎潤一郎・永井荷風・中島敦―"耽美"の情況
坂口安吾・椎名麟三―亡びの道の道標、戦後文学
中野重治―ナショナルな中野重治
三島由紀夫―虚無が美学を喰う―三島由紀夫の死に
長谷川四郎―長谷川四郎・くすんだこころ/四郎をロシア現代作家のなかへ措く
五木寛之―時代と向き合うラジカル・デラシネ/コロンの眼―五木寛之の実存
解説=内村剛介を読む
ダモーイ、異郷、そしてジャパン―内藤操と内村剛介 岡本雅美
解題―陶山幾朗
表紙題字 麻田平蔵(哈爾濱学院24期)
カバーデザイン 飯島忠義
前書きなど
岡本雅美(評論家・水利研究家)
『生き急ぐ』は副題に「スターリン獄の日本人」と付けて、一九六七年九月に三省堂新書の一冊として出版された。このことで特記したいのは、これが書かれたのは帰国十年後だったことである。因みに、画家香月泰男が、「黒いシベリア・シリーズ」を描いたのも帰国から十年後だった。この十年という歳月こそは、体験が帰国後の生活の中で熟成し発酵するに要した時間であったのだろう。またこの間に、香月の場合には、渡仏して発見した香月の色(黒)とフォルム(画面を埋める顔、顔、顔を見よ)があったし、内村の場合には、『イワン・デニーソヴィチの一日』の文体を知ったことがあったと思う。ソルジェニーツィンと違い、評論という形式でものを書く「初代インテリ」と自己規定する内村が――「タドコロ」というこの作品だけの分身を登場させる工夫はあったにせよ――詩歌小説戯曲のような創作でも体験記でも自伝でもない、(文壇の定義とは違うが)一世一代の私小説を書いた、というのが一読者としてのわたしの読後感である。(「解説」より)
版元から一言
推薦の言葉(吉本隆明、佐藤優、沼野充義)
垣間見えた鮮やかなロシアの大地
(評論家)吉本 隆明
内村剛介は、はじめその無類の饒舌をもってロシアとロシア人について手にとるように語りうる人間として私の前に現われた。以後、ロシア文学の味読の仕方からウオッカの呑み方に至るまで、彼の文章や口舌の裂け目から、いつも新鮮な角度でロシアの大地が見えるのを感じ、おっくうな私でもそのときだけはロシアを体験したと思った。
私のような戦中派の青少年にとって、実際のロシアに対する知識としてあったのはトルストイ、ドストエフスキイ、ツルゲーネフ、チェホフのような超一流の文学者たちの作品のつまみ喰いだけと言ってよかった。太平洋戦争の敗北期にロシアと満洲国の国境線を突破してきたロシア軍の処行のうわさが伝えられたが、戦後、ロシアの強制収容所に関して書いたり語ったりしている文学者の記録について、私はもっぱら彼が記す文章から推量してきた。
内村剛介にとって十一年に及んだ抑留のロシアは、この世の地獄でありまた同時に愛すべき人間たちの住むところでもあったが、この体験をベースとした研鑽が作り上げた彼のロシア学が、ここに著作集となって私たちを啓蒙し続けてくれることを期待したい。
智の持つ力を再認識させるために
(作家・起訴休職外務事務官)佐藤優
内村剛介氏は、シベリアのラーゲリ(強制収容所)における体験から、ロシアをめぐる個別の現象を突き抜け、人間と宇宙の本性をつかんだ稀有の知識人である。私自身、外交官としてロシア人と対峙したときに、内村氏の『ロシア無頼』から学んだ「無法をもって法とする」というロシア人の思考をきちんと押さえておいたことがとても役に立った。
また、私が鈴木宗男疑惑で逮捕され、東京拘置所の独房で512日間生活したときも、内村氏が『生き急ぐ』で描いた獄中生活の手引きに大いに励まされた。かび臭い独房の中で、学生時代に読んだ『生き急ぐ』のことを何度も思い出し、「この状況からはい上がってきた日本の知識人がいるのだ。僕も頑張らなくては」と何度も自分に言い聞かせた。
『内村剛介著作集』刊行を歓迎する。日本の読書界に知のもつ力を再認識させるために、この著作集が一人でも多くの人に読まれることを期待する。
「見るべきほどのこと」を見た人
(ロシア・東欧文学者)沼野充義
内村剛介は私がもっとも畏怖するロシア文学者である。ソ連や共産主義といった巨大な対象を相手にして本質を見抜く眼力の鋭さと、ロシア語そのものの魂に食らいつく語学力、そしてラディカルな正論を繰り広げる気迫に満ちた日本語。そのいずれをとっても、従来の文人タイプのロシア文学者の枠をはるかに超え、私たちの一見平穏な日常を強く撃つものだ。いや、二葉亭四迷以来、ロシア文学を熱心に輸入し消費しつづけてきた近代日本にあって、内村剛介はロシアを踏まえながらロシアを超えて批評家として自立したほとんど最初のケースではないだろうか。その原点にあるのは、戦後十一年もの長きにわたったシベリアの収容所経験である。それはソ連文明という二十世紀が生んだ謎のモンスターのはらわた内臓を見極める地獄めぐりだったが、同時に限りなく懐かしい魂の根源への旅でもあった。だからこそ、彼は「見るべきほどのことは見つ」と言い放てるのだ。ソ連が崩壊し、世界が別の怪物の内臓に呑み込まれつつあるいまこそ、私たちはもう一度真剣に、この厳しくも優しい稀有の思想家の声に耳を傾けなければならない。
追記
●冷徹な認識から繰り出される〈ジャパン〉批判
内村剛介が最も執着したテーマとは、ほかならぬ日本であり、「日本とは何か」という課題であった。この、おのが日本という問題を解き、真に愛しうべき日本を奪還する方途において、内村剛介はやはりロシアに拘わらざるをえない。自身の苛酷なロシア体験こそ、「日本」に到達する方法であったからである。
すなわち、眼前の日本を〈ジャパン〉と呼び、あえてこれをいったん遠ざけながら、ロシアに拘り、そのロシアを経由して日本に至らんとする。この至難な道を行く彼にとって、「ロシア-日本」という往還運動は必須の作業となったのである。「わたしが内村剛介の仕事に関心をもつのは、かれが穿ちつづけているロシヤ語の世界と民俗とが、結局、〈妣〉なる日本と、西欧なる日本との空隙を埋めるための模索にほかならないとおもえるからである。」(吉本隆明)
関連項目 吉本隆明 1960 安保闘争 ジャパンの 敗残兵 1970 ノンポリ 国家 戦中 戦後 戦無 ニヒリズム 戦後思想 宗教 デモクラシー 亡国 1980 ワレサ 文学 連帯 憲法第九条 河上肇 埴谷雄高 竹内好 村上一郎 松田道雄 清水幾太郎 鮎川信夫 江藤淳 小山俊一 谷川健一 二葉亭四迷 岩野泡鳴 芥川龍之介 菊池寛 正宗白鳥 北條民雄 島木健作 岡本かの子 内田百閒 志賀直哉 谷崎潤一郎 永井荷風 中島敦 坂口安吾 椎名麟三 戦後文学 中野重治 三島由紀夫 長谷川四郎 五木寛之 岡本雅美 陶山幾朗 麻田平蔵 哈爾濱学院 飯島忠義
上記内容は本書刊行時のものです。