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思考停止

ありきたりな書き出しで恐縮だが、新年明けてから現在に至るまでの日々は、あまりに「作業的」仕事に忙しく、編集者として新たな企画を生み出すための「創造的」仕事からかなり遠ざかっているような感じだ。
 よく引き合いに出されることだが、「忙しい」の「忙」は、「心を亡くす」と書くと言われる。私自身については、「心を亡くす」というよりは、忙しさに甘んじて「思考停止」に陥ると言うほうが実感に近い。限られた時間と体力と気力をたまった仕事に費やすことで精一杯な中で、この思考停止状態を超えてこの日誌を書くことにも苦痛を伴うような有様なのである。が、この「思考停止」をキーワードに2題書いてみることにした。

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1 How to本
 最近、弊社で企画を考える際にも「売れる本」になる一つの要素は、いわゆる「How to」(あるいはマニュアル)本である。書店の各売り場を見て回っていてもそういう本が「ベストセラー」として山積みになっているし、その山積みが極端に凹んでいるように見える。
 とかく「How to本」というとマイナスイメージで使われがちなのだが、そのこと自体を問題視するつもりはないし、憂えるつもりもない。私自身がそういう部類の本を日々必要としており、これだけ多くの情報があふれ、作業の効率化・迅速化ばかりが叫ばれる時代においては、少しでも失敗せずに乗り切る術を知っておきたいであろうし、世の中では(雑誌やインターネットという動的な媒体のみならず、むしろ静的な媒体とも言いうる)書籍もまた、そこで生き抜く術をできるだけコンパクトに迅速に提供するという役割を求められているとは言えるだろう。
 ただ、実際自分自身がこうしたHow to本を編集してみると、その著者自身は、ノウハウをそのとおりにやれば、世の中うまく渡っていけると信じているわけではないように見える。著者自身がそのHow to=方法論を生みだした背景に、無数の試行錯誤があり、よってそこには多数の失敗が含まれている。それは残念ながら本の中には直接的には表れてこない。
 編集作業中に、ある著者と「最近の若い人は、マニュアルとして書いてあると、『そのとおりにしないといけない』と100%に受け取ってしまうから、表現には気をつけないとね・・・」というような話をしたばかりだったので、なおそんなことを思った次第である(もちろん若い人だけではないと私は思うが)。おそらく「How to本」という言い方が持つマイナスイメージとは、上記のような懸念、つまり読者が思考停止状態に陥りやすいということによるのだろう。
 でも、読者を思考停止に陥らせないような「How to」本というのは存在しうるものだと思う。方法論が生み出された基盤にある著者の思想や経験というものが語られ、にじみ出てくるような本。そういう本に出会えると、そこに記述された方法論を試していると、少しずつかみしめて味が出てくるようなものだったりする。
 ただ、そういう本を書ける人をどう見つけるのか、どうやって引き出すのか、は難しい。どうすればその「How to」を知りたいところである。

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2 裁判員制度と死刑
 マスメディアで多く報道されていたが、ゴールデン・ウィークの最終日に、文化放送のラジオ番組で、50年前に録音された死刑執行の様子が一部流された。実のところ執行の様子を録音したという部分は、音質が良好ではなかったため、詳細は聞き取れなかったのではあるが、全体として興味深く聞いた。
 この番組の趣旨は、裁判員制度導入を前にして、裁判員が死刑判決をも行うことになることから死刑の実情を知ってもらいたい、ということだった。そこで、番組のなかでは、街頭インタビューで裁判員として死刑判決を行うことができるかどうかを質問していた。その回答のなかで、多くの人の声を代弁しているのではないか、と思われたのがおそらく中年男性の声と思われる「やだけど、もう、しようがないね」の一言だった。短いコメントだけでは、この声の主の真意はまったく測りかねる。が、「しようがないね」という言葉は、思考停止ではないか?
 裁判員制度の趣旨は、裁判への市民参加であり、裁判という意思決定において市民感覚を反映させることだった。でもマスメディアを流れる世論調査を見る限りでは、いまだ「参加したい」と積極的な意見を表明している「市民」は少ないらしい。よって、おそらく裁判に参加するということがどういうことか、真剣に考えている人も多くはないだろう(多くの人は「当たりっこない」と思っているだけかもしれないが)。
 自分が裁判員に「当たったら」そして、死刑を目の前の被告人に対して科することを考慮しなければならないような事件に「当たったら」? 確かに「嫌だからやめます」だけではとおらない、厳然たる法律で定められた国家のシステムである。だから「しようがない」と思考停止を決め込むしかないという気持ちも理解できる。でも、本当にそれでよいのだろうか?
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別の編集者の手によるものだが、弊社の新刊として、法律によって国民に直接執行までをさせるという日本社会を舞台にした小説『クロカミ The Black Slip』を先日刊行した。クロカミ The Black Slipもちろんすべてフィクションであるし、来年施行の裁判員制度だけを念頭においているわけではないが、諸処に日本社会で見られる裁判員制度や死刑制度をめぐる昨今の様々が透けて見える。
 小説なので、その結末は明かせない。少し唐突の感があるものの、戦後直後に行われた「アイヒマン実験」と言われるミルグラムによる実験、あるいは、70年代に行われたスタンフォード大学のジンバルドによる監獄実験(2002年に『es』として脚色されて映画化)という有名な心理学実験の結果を想起すれば、あり得ない結末とは言えないかもしれない。いずれも無作為で選ばれた学生等普通の人たちを「権力を行使する側」と「行使される側」に分けると、権力を行使する側による「乱用」がますますエスカレートし、行使される側に対する非人間的取り扱いに至る、というものだ。
 死刑は人を死に至らしめるという意味で、その重さは他の刑とは特別違う(とはいえ、個人的には死刑以外の刑であっても軽々しく下せないとは思うが)。しかし、自分の手では変えられない大きなシステムの中に組み込まれてしまえば、人々の思考停止を招き、死の意味すら稀薄かしかねないかもしれない。
 果たして、裁判員が始まるまでのこの1年、あるいは始まってから、システムに組み込まれて思考停止に陥る前に、私たちはいろいろ話し合えるだけの余裕を持つことができるだろうか。どんなに忙しくても、人の死に無感覚になるほどまでには心を亡くしたくない。

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