88年前の東京営業日誌
京都の人文書院で営業をしている佐藤と申します。よろしくお願いいたします。
人文書院は今年で創業103年、大正十一年の創業です。私は営業の他に社史や資料整理も担当しているのですが、三年前の創業100周年を迎えるにあたり、フェア用の小冊子を作成することになりました。
その中で前身である「日本心霊学会」の事や戦前戦後の出版活動を調べて社史を執筆したのですが、その過程で多くの新発見がありました。「日本心霊学会」については小社刊『「日本心霊学会」研究』をご覧いただきたいのですが、今回取り上げるのは戦前人文書院の社史を語るのに欠かせない、戦前の編集者である清水正光という人物です。
清水正光は人文書院ただ一人の社員で、編集に営業にとオールマイティーに活躍した人物です。そして、京都にいながら東京の出版社と張り合って著名な作家を掴まえていた名編集者でもありました。和歌研究の大家、佐佐木信綱とその門弟たち、飯田蛇笏、水原秋櫻子ら俳人、日本浪漫派同人の保田與重郎から太宰治まで、清水の懇意にしていた作家は枚挙に暇がありません。石原深予さんによるコラム「人文書院所蔵書簡調査の意義――主に文学的側面から」では清水正光の大量の書簡調査について書かれており、その内容について主に文学面から考察されています。
清水の書簡が多く残されている理由は、東京出張の報告として会社へ手紙をほぼ毎日出しており、その手紙が先般の資料整理で発見されたためです(発見の詳細は人文書院noteの拙稿「日本心霊学会―人文書院新発見資料発見の経緯」をご覧ください)。その手紙は主に社長への報告事項で、著者との打ち合わせ、原稿の進捗状況、装丁や印税率の交渉など事務的なやり取り、書店(取次)との仕入交渉結果のほか、同業者との雑談、東京の出版業界の様子などが記されており、清水の仕事ぶりが伺えるものでした。一例として次の手紙を紹介しましょう。
○清水から渡邊久吉社長への手紙(11096)昭和十二年(一九三七年)三月七日
「十時すぎ(荻原)井泉水宅から帰り、お湯に入って、漸く一日のつかれを流した所です。(中略)井泉水へは印税がわりに書物だけの話しをしましたが、そもそも問題にならず、結局原稿は返すことにしました。至急にて返送下さい。どこででも出るらしいです。栗田辺りでいはせると千部位のファンはあると云ひます。彼の雑誌が二千部刷ってゐる所をみると或いはそうかも知れないと思ひます。唯だ白馬(に乗る)は思ふに夏季のものがおくれてこの折角の廣告が利かなかったのではないかと思はれます。(後略)」
著者との打ち合わせはこういう様子でした。おそらく、荻原井泉水(1884~1976)からこれは出版できないかと原稿が送られてきて、京都で原稿を受け取ったがどうにも売れそうにない。印税無しの現物支給なら出しますよ、という返事をわざわざ東京まで行って説明したのでしょう。自分は売れるかもしれないと思うのだが会社としてそういう返答をしなくてはいけない。気が進まない仕事なのでしょう。なんだか読んでいる私の胃まで痛くなってきました。販売部数について栗田書店でアドバイスをもらったり、前に出した井泉水の単行本『白馬に乗る』(1936年刊行)が広告の時期を逃して売れなかったと分析しているのも清水の出版人としての確かさを感じます。
同業者との雑談の中で、清水の出版に対する気持ちが表れている部分を抜き出してみます。
○清水から渡邊久吉社長への手紙(11092)昭和十二年(一九三七年)三月四日
「第一書房金星堂の社員に会いました。安い本の時代だと云います。安くなければ売れないと云います。勿論著者にも依る訳ですがその点人文書院は特異性の著者だから安い位だと云っていました。そう云うことが東京の本屋で話題に成っているそうです。同じ文芸のものでも、指導性のあるもの、特異性のあるものに向かっていることを認識されることは私の小さな喜びです。
京や大阪の本屋にボロクソに云われ、まるで目的なしに片っぱしから出版する様に思われているらしいのも片腹いたいことですが、相当の苦心もあることを思って呉れる同業もある事をみると、世の中全く捨てたものではありません。多少溜飲を下げました。」
地元ではボロクソに言われても、東京の本屋は特殊な本で妥当な価格だと理解してくれている。現在でも同業者から「いい本出してるね」といわれるとやる気が出てくるものです。昭和不況が続き安い本が粗製乱造される時代で、それでも良い本を出そうとした清水の出版に対する気概が表れています。
手紙の内容は仕事の事ばかりではありません。東京に進学した社長の子どもたちの近況報告、著者の金銭トラブル解決、上野の桜の開花状況、2・26事件から一年経った東京の様子などなど・・・。通信手段が今ほど便利でない時代、現地でしか知りえない情報を京都に持って帰ってくるのもまた東京出張の目的でした。
中でも面白いのが、出張中の余暇の過ごし方がわかるところです。出張はおおむね1週間以上だったようで、当然どこかで休まねば体がもちません。彼の趣味は音楽で、手紙の中にも頻繁に音楽の話題が出ています。先ほどの井泉水の報告があった手紙の後段は、気分転換なのか仕事と関係ない事をつらつらと書いています。
○清水から渡邊久吉社長への手紙(11096)昭和十二年(一九三七年)三月七日
「著者から著者への往来は、所かまはず喫茶店へ入ります。春らしいレコードを聞きます。どなたかの好きだとおっしゃったのも盛んにかけてゐます。
憧憬(あこがれ)の星さやか君とみる、あゝ涙と愛のかの瞳、グラスを挙げて高らかに 謳(うた)へたゝえ、いざ青春のカーニバル――
依然こんなのをかけてゐます。どこかで聞かれたと思いますが、如何。夜、銀座をブラつきますと、伊東屋の向ふ前に人が渦をまゐてゐます。ポリドールの三月新譜を聞ゐている儚い夢の銀座マンです。恰度それを聞いてゐる位置から東京ラプソデー中の一シーンで、藤山(一郎)がアコオディオンで東京娘を物干しで歌った背景―それは銀座会館の流れる星のネオンですが―がみえるのです。そう言ふ光景をみてゐると、唯だ何となく笑はずには居られません。」
なんともユーモラスでちょっとロマンチックな清水の人柄がうかがえます。仕事終わりに渋谷の東横食堂でオペラを鑑賞しながら優雅な夕食をとったり、休日に浅草で田谷力三のオペラを聞いたり、その様子を書く清水の筆はどれも楽しそうです。
そんな清水に転機が訪れたのは1944年。戦時企業統制で人文書院と立命館出版部ほか数社が合併し、京都印書館が発足します。清水は京都印書館へ移り、そこで編集長として活躍しました。戦後になると発行人に清水の名前が載っているので、おそらく社長となっていたのでしょう。1947年に人文書院が独立再興した時に戻ることできず、1950年に京都印書館を辞した後1951年に死去したと考えられます。
しかし清水が築いた業績と人脈は、確かに人文書院の中で生きていました。京都印書館で清水の指導を仰いだ人文書院二代目社長の渡邊睦久が1950年に「ヘッセ著作集」を企画、清水が懇意にしていた日本浪漫派同人でもあったドイツ文学者の芳賀檀が翻訳を担当し、戦後の人文書院は翻訳出版という新たなスタートを切ることになるのです。この文芸書から翻訳書に至るまでの顛末もなかなか面白いのですが、今回はこれまでとさせていただきます。
1950年頃の人文書院関係者による野外宴会の様子。奥の帽子を被った男性が社長の渡邊久吉、その右隣が経理を担当していた妻きくゑ。右端手前の眼鏡をかけた細身の男性が清水正光。