『小説 武左衛門一揆 ちょんがりの唄がきこえる』を出版して
この春、『小説 武左衛門一揆 ちょんがりの唄がきこえる』(二宮美日)
を出版しました。武左衛門一揆とは寛政五年(1793年)に伊予国吉田藩で起こった農民一揆です。一揆の歴史上まれに見る勝利をもたらしたもので、その首謀者・武左衛門は、門付け芸人として桁打ちに身をやつして村の家々をちょんがり節を語って回り、同志を募ったといわれています。こうした民衆が作った歴史の例にもれず、一揆に起ち上がった地元に伝えられる話と藩などにより文字に残された史料には乖離があり、武左衛門一揆は今も多くの謎に包まれています。
しかし、その物語、また首謀者・武左衛門に惹かれる地元の研究者・文学者は多く、時の研究者たちに研究され続け、折々にその成果が発表されてきました。その流れは、一揆後、「農民をそそのかした極悪人」とされていた武左衛門が、時代とともに、「苛政のなか一揆を成功に導いた思慮深いリーダー」へと蘇る過程であり、当地域には多くの武左衛門ファンが生まれているようです。
小社でも、今回の「武左衛門本」は、三冊目。
一冊目は2001年に出版した『武左衛門・起つ』(木野内孔)。
二冊目は2018年出版の『帰村-武左衛門一揆と泉貨紙-』(宮本春樹 2002年に私家本ととして発表したものの改訂版)。
前書は小説、後書は研究書ですが、ともに1990年に発見された新資料の解読が進んだことで、新しい視点での一揆、武左衛門の姿が描かれています。
今春の『--ちょんがりの唄がきこえる』は、そうした先人研究者の業績を血肉として、一世代若い著者が大胆に想像の翼を広げ、武左衛門とその仲間達を描いたものです。
地元に残る一つの出来事が、時代とともに忘れ去られる、ということは自然の流れですが、武左衛門に関しては、かつて隠されていたものが時代とともに明らかにされていく、という感があります。今回の小説は、武士の立場から書かれた史料しか残されていないなか、そうした史料を駆使してそれぞれの立場の人間たちを描きたい、と書かれたもので、武左衛門を真っ正面に置いて、彼と彼を巡る人間模様を活き活きと描きだしました。実は自身も武左衛門フアンである私にとって、とても楽しい仕事でした。
そうして出来上がった本は、まず地元で「待望していた本」として受け入れられました。著者は、武左衛門の里・鬼北町で生まれ育ち、農業と家業(和菓子製造業)のかたわら、地域の組合活動やボランティアで「町おこし」に尽力している人物です。そんな彼女の執筆動機の一つが「もっと自分たちの村の歴史を知ってもらいたい」というものでしたので、目的のひとつは達成されたと言っていいでしょう。
ここで、ふと、明治末から昭和初期に当地を新しい時代に導いた井谷正命・正吉父子のことが思い起こされました。父は初代日吉村長・県議議員として、息子は農民運動家・衆議院議員として地域に尽くしましたが、父・正命は、彼こそが武左衛門の復権に尽力し、「義農・武左衛門」を世に広めた人物でした。また、正吉も農民運動を村内に広めるにあたっては、武左衛門が門付けでのちょんがり節で仲間を募ったことに倣い、仕事を終えた夜、村人同士が家々を訪ね新しい思想を説いて回る、という手法を用います。そうして開かれた1922年5月1日の集会は、四国初のメーデーとなりました。
彼らの生家の裏山にその集会の場所となった明星が丘があり、現在武左衛門一揆記念館が建てられていますが、今回の著者は、幼い頃その裏山で遊んでいて、大人になって町おこしを考えるようになったとき、その指針となったのが武左衛門一揆だったといいます。
「武左衛門一揆」という史実そのものも大変興味深いものですが、この史実を巡り地元の人々が紡いできた歴史も、また、なかなかのものだと思うのです。
余談ですが、武左衛門の里・日吉村は、2005年、広見町と合併して鬼北(きほく)町となりました。山や川などの峻険な場所の地名に「鬼」が用いられるのはよくありますが、自治体の名前として「鬼」がつくのは、珍しいのではないでしょうか。よりによって、新しく名前を選ぶにあたって、なぜ、「鬼」?とは、誰しも思うところではないでしょうか。
しかし、地元の人たちは「鬼ヶ城(おにがじょう=愛媛県南予地方の険しい山の名)の北だから、鬼北(きほく)。昔から地元ではそう呼び習わしていたし」と屈託ありません。現在はそのユニークな町名をアピールして、「鬼」にちなんだ様々なイベントによる町づくりを行っています。その開き直ったかのようなのびやかさに、武左衛門の末裔たちのしたたかさが垣間見えるような気がします。