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自然主義の構造と系譜
花袋から潤一郎まで
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2025年9月20日
- 書店発売日
- 2025年10月10日
- 登録日
- 2025年9月2日
- 最終更新日
- 2025年11月4日
紹介
自然主義の問題をより鮮明にするための書。
これまで日本の自然主義文学は、あまりに歴史的コンテクストに縛られて解釈されてきたのではないか、自然主義の問題は時にはモデル論に還元され、人間化されてしまうに至っているのではないか――という問題意識のもと、自然主義を狭義の歴史主義から解き放ち、その可能性を考える。
神話と歴史の点で様々な豊かさを秘めた自然主義文学の言語の力を解き明かす。
第一部では田山花袋、島崎藤村、徳田秋声、泉鏡花をめぐって自然主義の物質的構造というべきものを浮き彫りにし、第二部では森鷗外、夏目漱石、志賀直哉、谷崎潤一郎をめぐって自然主義の批判的系譜を辿る。さまざまなテクストを横断しながら自然主義文学を考えていく。
目次
序 自然主義、その法外な可能性
第一部 自然主義の物質的構造
【第一部は田山花袋と空気、島崎藤村と大地、徳田秋声と火、泉鏡花と金属をめぐって物質的構造とでもいうべきものを探っている。Ⅰでは「空気」をキーワードとして花袋作品における自然、家族、女性、時間、歴史について論じた。Ⅱでは「大地」と「空気」をキーワードとして藤村作品における主体化、放浪、閉塞、再生、歴史について論じた。Ⅲでは秋声作品における火の役割について検討し、すべてを「未解決のまま」にする散文的特質を論じた。Ⅳでは鏡花作品における制度、鉄道、系図、金属、書物をめぐって自然との入り組んだ関係について論じた。Ⅴでは国木田独歩における驚きと悲しみ、岩野泡鳴における響きと笑い、正宗白鳥における余所余所しさと鈍さについて論じ、自然主義の深さと広がりを示した。結び目に当たる小論では四人の作家の関係を整理しまとめた。】
Ⅰ 田山花袋における空気と表象
一 自然をめぐって――一九〇二~九年
二 家族をめぐって――一九〇八~一〇年
三 女性をめぐって――一九一一~一六年
四 時間をめぐって――一九一六~二七年
五 歴史をめぐって――一九一七~二三年
おわりに
Ⅱ 島崎藤村における大地と歴史
一 大地と主体化――『破戒』一九〇六年
二 大地と放浪――『春』一九〇八年
三 大地と閉塞――『家』一九一〇~一一年
四 大地と再生――『新生』一九一八~一九年
五 大地と歴史――『夜明け前』一九二九~三五年
おわりに
Ⅲ 徳田秋声における火と散文
一 初期作品における火の形象――一八九六~一九〇八年
二 火と『新世帯』――一九〇八年
三 火と『足迹』――一九一〇年
四 火と『黴』――一九一一年
五 火と『爛』――一九一二年
六 火と『あらくれ』――一九一五年
七 火と短篇――一九一七~三二年
八 火と『和解』――一九三三年
九 火と『仮装人物』――一九三五年
一〇 火と『縮図』――一九四一年
おわりに
Ⅳ 泉鏡花における制度と自然
一 制度と自然――一八九四~九九年
二 鉄道と自然――一九〇〇~六年
三 系図と自然――一九〇七~一七年
四 金属と自然――一九一八~二八年
五 書物と自然――一九二九~三九年
おわりに
Ⅴ 独歩・泡鳴・白鳥:自然主義の作家たち
一 国木田独歩――驚きと悲しみ
二 岩野泡鳴――響きと笑い
三 正宗白鳥――余所余所しさと鈍さ
小論 四人の作家を讃えて
第二部 自然主義の批判的系譜
【第二部では自然主義の批判者たちについて検討する。森鷗外と夏目漱石、志賀直哉と谷崎潤一郎は自然主義の性欲をめぐる決定論に反発している。それぞれ知性、倫理、情動によって自然主義の決定論を覆そうとするのだが、そこには別の自然主義が働いているように思われる。
「日本の自然主義はあまり大した作物を生まなかつたが、硯友社のマンネリズムを掃蕩した点に於いて非常な功績があつた。鷗外にしろ、漱石にしろ、荷風氏にしろ、又後輩のわれわれにしろ、自然主義ならざる者も何等かの形で多少とも影響を受けた」と谷崎は記している(『「つゆのあとさき」を読む』一九三一年)。とすれば、それゆえに別の自然主義が存在するのではないか。森鷗外の批判的自然主義、夏目漱石の拡散的自然主義、志賀直哉の倫理的自然主義、谷崎潤一郎の倒錯的自然主義、そうした仮説を提出するのが第二部である。第一部とは異なり、ここでは歴史性が重視される。作家たちは、それぞれの形で近代というナラティヴに抗っているからである。】
Ⅰ 森鷗外の批判的自然主義――記号と国家
一 鷗外の自然主義批判――現代小説をめぐって
二 鷗外の批判的自然主義――歴史小説をめぐって
おわりに――記号と国家
補論 鷗外の翻訳小説――死者の復活
一 『諸国物語』の翻訳小説
二 『諸国物語』以外の翻訳
Ⅱ 夏目漱石の拡散的自然主義――非人情とテクスト
一 漱石の自然主義批判
二 汽車・落下・誕生――『それから』まで
三 落下・明暗・外地――『満韓ところどころ』以後
おわりに――非人情と彽徊
Ⅲ 志賀直哉の倫理的自然主義――偶然と歴史
一 『網走まで』と小説の構造――不機嫌から緊張・緩和へ
二 志賀と『実践理性批判』――夜空と動物
三 『暗夜行路』論――鉄道小説と倫理
四 線と面または言語の力学
おわりに――偶然と反復について
Ⅳ 谷崎潤一郎の倒錯的自然主義――崇高と歴史
一 『刺青』と小説の構造――筆記から崩壊へ
二 谷崎と『判断力批判』――数学・力学・崇高
三 『細雪』論――家庭の医学と崇高
四 筆記と崩壊――谷崎の前期・中期・後期
結語 自然主義と言語
あとがき
前書きなど
序 自然主義、その法外な可能性
……そんな法は無い―『新生』第二巻百七
これまで日本の自然主義文学は、あまりに歴史的コンテクストに縛られて解釈されてきたように思われる。自然主義の問題はしばしばモデル論に還元され、人間化されてしまった。しかし、自然主義は神話と歴史の点で様々な豊かさを秘めている。自然主義には歴史的側面とともに、神話的側面があるといってもよい。本試論では自然主義を狭義の歴史主義から解き放ち、その可能性を考えてみたい。日本の自然主義を代表するのは田山花袋(一八七一―一九三〇)、島崎藤村(一八七二―一九四三)、徳田秋声(一八七一―一九四三)だが、泉鏡花(一八七三―一九三九)も取り上げる。自然主義の問題をより鮮明にするためである。「自然主義はリアリズムに対立せず、反対に、リアリズムのいくつかの特徴を、或る特殊なシュールレアリスムに引き延ばすことによって強調している」というジル・ドゥルーズの指摘は重要であろう(『シネマ1』財津理、齋藤範訳、法政大学出版局、二〇〇八年)。
『意味の論理学』に収められた「ゾラと裂け目」もまた魅力的な自然主義論である(小泉義之訳、河出文庫、二〇〇七年)。ドゥルーズはエミール・ゾラの鉄道小説に死の裂け目を指摘しているが、それに倣って、まず鉄道とのかかわりを素描しておきたい。風俗史家である花袋において鉄道は空気を震わすものであり、風俗史的な役割を果たす。「危いと車掌が絶叫したのも遅し早し、上りの電車が運悪く地を撼かして遣つて来たので、忽ち其の黒い大きな一塊物は、あなやと言ふ間に、三四間ずるずると引摺られて、紅い血が一線長くレイルを染めた。/非常警笛が空気を劈いてけたたましく鳴つた」(『少女病』)。
詩人である藤村において鉄道は大地から立ち上がらせるものであり、詩的な役割を果たす。「過ぐる七年のさびしい嵐は、それほど私の生活を行き詰つたものとした。/私が見直さうと思つて来たのも、その墓地だ。そして、その墓地から起き上る時が、どうやら、自分のやうなものにもやつて来たかのやうに思はれた。その時になつて見ると、『父は父、子は子』でなく、『自分は自分、子供等は子供等』でもなく、ほんたうに『私達』への道が見えはじめた。(中略)/『次郎ちやん、停車場まで送りませう。末子さんもわたしと一緒にいらつしやいね。』とお徳が言ひ出した」(『嵐』)。『ある女の生涯』の場合は大地からヒロインを引き離している。「汽車は黒い煙をところどころに残し、旧い駅路の破壊し尽された跡のやうな鉄道の線路に添うて、その町はづれをも離れた。/おげんはがつかりと窓際に腰掛けた」。
小説家である秋声において鉄道は火を撒き散らすものであり、散文的な日常に連れ戻す役割をもつ。「火のやうに見える件の隧道の小口から、塊の真黒の烟を絶か吐出して、轟々と出て来た列車がある」(『気まぐれもの』)、「日暮里へ来ると、灯影が人家にちらちら見えだした。昨日まで、瀑などの滴垂りおちる巌角に彳ずんだり、緑の影の顔に涼しく揺れる白樺や沢胡桃などの、木立の下を散歩したりしてゐたお増の頭には、長いあひだ熱鬧のなかに過された自分の生活が、浅猿しく振顧られたり、兄や母親達と一緒に、田舎に暮してゐるお柳の身のうへが、哀れまれたりした」(『爛』三十)。
劇作家である鏡花において鉄道は水を招き寄せるもの、自然を縫い取るものであり、演劇的な役割を果たす。「北陸線は、越前敦賀から起つて、福井を越え、当国大聖寺を通つて、今や将に手取川に臨んで居る。二條の鉄線は蜒々として、名だたる嶮峻、中の河内、木芽峠を左右に貫き、白鬼女、九頭龍の流を渡り、牛首を枕にして、ずるずると連続して居る、山は巻いては、恰も高き黒き虹の如く、川に横つては大いなる白き蛇の如きものだ」(『続風流線』三十六)。自然主義者たちはいずれも地方出身だが、自然主義とは鉄道によって呼び覚まされた自然の轟きであるかのようだ。自然主義は鉄道という大地に刻まれたエクリチュールによって覚醒する。そこには時代に順応することのない凶暴なものが潜んでいる。
吉田精一『自然主義の研究』上・下(東京堂、一九五五・五八年)は自然主義文学の思想的性格として、強烈な自我意識、自然への肉迫、家の問題、傍観的態度を指摘している(第四部第三章)。これまで自然主義文学は、近代的自我史観のもとで主体性の欠如が非難されてきた。しかし、ここでは自然主義文学を神話性と歴史性という観点から読み解いてみたいと思う。もちろん、自然主義とは神話批判の試みであろう。しかし、新たな神話を再創造してもいる。はなはだ簡便な定義ではあるが、とりあえずイメージの凝集や連続を神話性と呼び、イメージの分散や非連続を歴史性と呼んでおくことにする。人間中心主義を回避しつつ、できるだけテクストに密着した字義的な分析を試み、自然主義から物質的な構造を取り出してみたい。
第一部では田山花袋、島崎藤村、徳田秋声、泉鏡花をめぐって自然主義の物質的構造というべきものを浮き彫りにする。
続く第二部では森鷗外、夏目漱石、志賀直哉、谷崎潤一郎をめぐって自然主義の批判的系譜を辿ることになる。いくつもの限界をもちながら本書を構成するのは、そうしたテクストの横断である。
作品引用は『定本花袋全集』(臨川書店、一九九三~九五年)、『藤村全集』(筑摩書房、一九七三・四年)、『徳田秋声全集』(八木書店、一九九七~二〇〇六年)、『鏡花全集』(岩波書店、一九八六~八九年)、『定本国木田独歩全集』(学習研究社、一九七六年)、『岩野泡鳴全集』(臨川書店、一九九四~九七年)、『正宗白鳥全集』(福武書店、一九八三~八六年)、『鷗外全集』(岩波書店、一九八六~九〇年)、『漱石全集』(岩波書店、一九九三~九九年)、『志賀直哉全集』(岩波書店、一九九八~二〇〇二年)、『谷崎潤一郎全集』(中央公論新社、二〇一五~一七年)による。その際、基本的に旧漢字は新漢字に直し、振り仮名を加減し読みやすくしたが(本文引用部分の「/」は改行を示す)、それぞれ刊行された全集の恩恵に感謝したい。個人全集を読む楽しみが伝われば幸いである。
上記内容は本書刊行時のものです。
