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カンボジア中世史 マック・プン(著) - めこん
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カンボジア中世史 (カンボジアチュウセイシ) カンボジア・シャム・ベトナム民族関係史 1594-1720年 (カンボジアシャムベトナムミンゾクカンケイシセンゴヒャクキュウジュウヨネンセンナナヒャクニジュウネン)
原書: Histoire du Cambodge de la fin du XVIe siècle au début de XVⅢe

歴史・地理
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発行:めこん
A5判
縦215mm 横155mm 厚さ43mm
重さ 1166g
778ページ
上製
定価 5,000円+税
ISBN
978-4-8396-0326-7   COPY
ISBN 13
9784839603267   COPY
ISBN 10h
4-8396-0326-X   COPY
ISBN 10
483960326X   COPY
出版者記号
8396   COPY
Cコード
C3022  
3:専門 0:単行本 22:外国歴史
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2021年12月18日
書店発売日
登録日
2021年12月31日
最終更新日
2022年1月19日
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紹介

1995年フランスの極東学院から出版されたHistoire du Cambodge de la fin du XVIe siècle au début de XVⅢe は、『カンボジア近世史』(キン・ソック著・石澤良昭訳 2019年刊)と共に、ポスト・アンコールのカンボジアとシャム・ベトナムとの関係を解き明かした書として、世界的な評価を得ており、東南アジアに関する研究書には必ず引用されている名著です。この書を、アンコールワットの研究家として名高い石澤良昭氏と佐藤恵子氏が10余年の歳月をかけて訳出しました。人名地名索引・年表・地図・王統図なども万全で、今後長く東南アジア研究の基本書として読まれるでしょう。

目次

まえがき
序 章
1. 使用した原典
(1) カンボジアの王朝年代記
1)ノロドム王時代以前の王朝年代記
―いわゆるアン・エン(Aṅg Eṅ)[AE]王朝年代記
―断片F1170および写本P57
―ノーン(Naṅ)の王朝年代記
2)ノロドム王の時代、もしくはその後に推敲された王朝年代記
―1869年版王朝年代記
―ノッパロァト殿下の王朝年代記
―王朝年代記P3
―王朝年代記P58
―王朝年代記ME
―王朝年代記P63およびVJ
―王朝年代記DV
3)王朝年代記の断片4編
―王朝年代記P64/3
―王朝年代記P53/9
(2) カンボジアの近世碑刻文
1) アンコール近世碑刻文(IMA)
2) その他の近世碑刻文
2. 最近のカンボジアの歴史研究
(1) チャン・ギアの著書
(2) マイケル・T・ヴィッカリーの学位論文
(3) デイヴィッド・P・チャンドラーの著書
3. 研究を進めるうえで直面した問題
(1)君主の名前と肩書
1)ノロドム王の事例
2)混乱の原因
3)14世紀半ば以降の君主の名前=肩書
(2)王子の名前=肩書
(3)王女の名前=肩書
(4)高官の名前=肩書
4. リァム1世以前の状況
(1) ボロムリァチァ4世(サッター)の即位名=肩書
1) クメール碑刻文の記載
2) ヨーロッパの原典の記載
(2) IMA3のボロムリァチァ王子の身分
第1章 リァム1世と息子および後継者
リァム1世(1594-1596)
1. 権力の座に就く前のリァム1世
(1) チュゥン・プレイの「プリァッ・ヴォン(braḥ vaṅs)」リァム
(2) チュゥン・プレイの「プリァッ・ヴォン(braḥ vaṅs)」リァムの子供たち
(3) 権力掌握以前のチュゥン・プレイの「プリァッ・ヴォン(braḥ vaṅs)」リァムの行動
1) ボロムリァチァ4世(サッター)の都からの、次いでカンボジアからの逃亡
2) チュゥン・プレイの「プリァッ・ヴォン(braḥ vaṅs)」リァムの態度
2. リァム1世の権力掌握
(1) リァム1世、王権力の座に就く
(2) 新国王の称号
3. シャム占領軍に対する攻撃
(1) 攻撃の展開
(2) 攻撃の時期
(3) カンボジアに残留したシャム駐屯部隊の正確な所在地
(4) リァム1世に兄弟はいたのか
4. シャム人が立ち去った後の王国の情勢
(1) 悲惨な状況下で悪戦苦闘した王国
(2) リァム1世の権限の拡大
5. チャンパーへの攻撃
(1) マレー人のラクスマナとチャンコナ
(2) チャンパー王国へのクメールの遠征
6. ポルトガル人とスペイン人の再来(1596年)
(1) カンボジア王朝年代記の記載
(2) その他の原典の記載
7. リァム1世の暗殺(1596年5月)
(1) リァム1世とヨーロッパ人との間にあった猜疑心
(2) スレイ・サントーの王宮急襲と王の暗殺
8. リァム1世暗殺の結果
リァム2世(チャウ・ポニェ・ヌー)(1596-1597)
1. リァム2世(チャウ・ポニェ・ヌー)の即位
(1) 王朝年代記F1170 およびP57の記載
(2) ヨーロッパの原典の記載
2. チャウ・ポニェ・ケオ王子の抵抗
3. 王朝年代記P57とF1170にみる反逆王ケオ・プリァッ・プロゥン
(1) 断片F1170によるケオ・プリァッ・プロゥン
(2) ケオ・プリァッ・プロゥンの攻撃の理由
(3) 各王朝年代記のケオ・プリァッ・プロゥンに関する情報
4. リァム2世(チャウ・ポニェ・ヌー)の殺害
(1) カンボジアの大無政府時代
(2) ボロムリァチァ5世(チャウ・ポニェ・タォン)のカンボジアへの帰還

第2章 16世紀末から17世紀初頭における3人の王の束の間の治世
ボロムリァチァ5世(チャウ・ポニェ・タォン)(1597-1599)
1. ボロムリァチァ5世(チャウ・ポニェ・タォン)時代の到来
(1) ボロムリァチァ5世(チャウ・ポニェ・タォン)のラオスからの帰還
(2) 新王による権力掌握
2. 王国内部の紛争
(1) ボロムリァチァ5世(チャウ・ポニェ・タォン)
(2) 高官と地方長官の反乱
(3) 王陣営の(一時的な)勝利
3. 外国への要請
(1) アロンソ・ヒメネス神父への王の書簡
(2) 公刊された別のいくつかの書簡
(3) アンコール近世碑刻文:IMA 6
4. ボロムリァチァ5世(チャウ・ポニェ・タォン)の暗殺
(1) マレー人とチャム人の反乱
(2) 西欧の史料からみた情勢
(3) ダスマリニャスの遠征とその結果
(4) ヨーロッパ人たちの虐殺
(5) 王の暗殺
ボロムリァチァ6世(チャウ・ポニェ・アォン)(1599-1600)
1.ボロムリァチァ6世(チャウ・ポニェ・アォン)、王権力の座に就く
(1)チャウ・ポニェ・アォン王子への即位要請
(2)ボロムリァチァ6世(チャウ・ポニェ・アォン)の過去
2.王国の平定
(1)6人の「地方長官=王」によるカンボジア分割
(2)マレー人ラクスマナに対するクメールの勝利
3.ボロムリァチァ6世(チャウ・ポニェ・アォン)の暗殺
ケオ・ヴェァ1世(チャウ・ポニェ・ニョム)(1600-1602)
1.ケオ・ヴェァ1世(チャウ・ポニェ・ニョム)の即位
2.ケオ・ヴェァ1世(チャウ・ポニェ・ニョム)と先王ボロムリァチァ6世(チャウ・ポニェ・アォン)は架空の君主なのか
3.スレイ・ソリヨーポール王子の帰還要請

第3章 ボロムリァチァ7世(スレイ・ソリヨーポール)(1602-1619)
1.後のボロムリァチァ7世(スレイ・ソリヨーポール)
(1)スレイ・ソリヨーポール王子
(2)「ウペァヨーリァチ」スレイ・ソリヨーポールのカンボジアへの帰還
2.後のボロムリァチァ7世(スレイ・ソリヨーポール)の子供たち
(1)後の国王の子供の数
(2)王子たちの名前=肩書の問題
3.  後のボロムリァチァ7世(スレイ・ソリヨーポール)の帰国の旅
(1)旅での出来事
(2)コッ・スラケートの正確な場所
4.ケオ・ヴェァ1世(チャウ・ポニェ・ニョム)の罷免
5.ボロムリァチァ7世(スレイ・ソリヨーポール)、王権力の座に就く
(1)新王による権力掌握
(2)ボロムリァチァ7世(スレイ・ソリヨーポール)が権力を掌握した時期
6.  長男チェイチェッター王子の帰還に先立つ内部工作
(1)伝統的機構の整備
(2)王国の平定
1)反乱
2)オクニャ・デチョ・プリァッ・アン「メァス」
3)軍事行動
4)元王ケオ・ヴェァ1世(チャウ・ポニェ・ニョム)の反乱(西暦1602/3年)
5)バレイ・カォン・チャックの反乱
6)サムボック僧院における宗教建造物
7)タマォ・コルのリァム地方長官=王の降伏(西暦1607/8年)
7.長男チェイチェッター王子の帰還以前のシャムとの関係
(1)王の子供たちの帰国に向けた請願
(2)西暦1603/4年のシャムの軍事介入
8.1603/4年のシャムによるカンボジア介入の結果
(1)カンボジアにおける最後の宣教師
(2)日本人に対する王の態度
9.チェイチェッター王子のカンボジアへの帰還
  10.チェイチェッター王子帰還後の内政
    (1)王国平定化の追求
    (2)地方の再編成
(3)チャムに占領されていた土地の奪還
(4)西暦1608年のロヴェーエムへの遷都
(5)新貨幣の鋳造
    (6)即位礼をはじめとする儀式(西暦1613/4年)
11.弟ウテイ王子の不品行
  12.チェイチェッター王子帰還後の外交政策
    (1)シャムとの関係
     1)シャムの従属国カンボジア
     2)クメール王国の態度の変化
     3)シャムの保護下から離れた年
    (2)南ベトナム政権との関係
     1)ボロムリァチァ7世(スレイ・ソリヨーポール)以前のクメール=ベトナム関係
     2)グエン(阮)朝ベトナム政権
     3)チェイチェッター王子とグエン(阮)王女の婚姻
     4)婚姻がもたらしたもの
    (3)ヨーロッパ諸国との接触
13.ボロムリァチァ7世(スレイ・ソリヨーポール)の譲位

第4章 チェイチェッター2世 (1619-1627)
1.チェイチェッター2世、王権力の座に就く
    (1)チェイチェッター2世の即位年
    (2)チェイチェッターの名前=肩書がもたらす問題
    (3)即位以前のチェイチェッター2世
  2.先王ボロムリァチァ7世(スレイ・ソリヨーポール)の死
  3.ウードンでの都の建設
  4.シャムの攻撃
    (1)西暦1622年のシャムの遠征
     1)対峙した軍事勢力
     2)プノン・チョンコンの戦い
     3)ピェムとバンテアイ・メァスの戦い
     4)他の原典による情報
     5)ソンタム王の書簡集
     ―オランダの上層部に宛てたソンタム王の書簡
―リチャード・ファースランドに宛てたソンタム王の書簡
―日本の将軍に充てたソンタム王の書簡
6)オランダの指揮官レイエルセンの決議文
     7)シャム人戦争捕虜の運命
    (2)西暦1623年のシャムの遠征
  5.グエン(阮)朝ベトナムの宮廷との関係
    (1)ベトナムの使者のカンボジア常駐
    (2)西暦1623年のコッ・クロベイとプレイ・ノコー税関の暫定譲渡
     1)プレイ・ノコー地方
     2)プレイ・ノコーとコンポン・クロビーの正確な位置
     3)ベトナムの要求
     4)チェイチェッター2世の返答
     5)ベトナム人、コンポン・クロビー=プレイ・ノコー地域におけるベトナム人の定住
  6.ヨーロッパ諸国および日本との関係
    (1)オランダおよび英国との関係
    (2)日本との関係
    (3)スペインとの関係
  7.チェイチェッター2世の内政
    (1)王国の平定
     1)スダチ・サォムレーの反逆
     2)シャム人戦争捕虜の暴動
    (2)アッタプー遠征
    (3)チェイチェッター2世の宗教事業
     1)ワット・プリァッ・プット・リァイ・レックの仏像
     2)プノン・プリァッ・リァチ・トロァプの3基のチェディ
    (4)その他の王の功績
     1)法の改訂
     2)象の名前協定
  8.長男スレイ・トマリァチァ王子の婚約
  9.チェイチェッター2世の死

第5章 スレイ・トマリァチァ1世(チャウ・ポニェ・トー)(1627-1632)
ウペァヨーリァチ・ボロムリァチァ(ウテイ)
クメール君主の継承
   (1)王家への帰属
    (2)高位高官たちによる新王の指名
    (3)女系親による前王とのつながり
スレイ・トマリァチァ1世(チャウ・ポニェ・トー)(西暦1627-1632)
  1.スレイ・トマリァチァ1世(チャウ・ポニェ・トー)の即位
  2.王、ウードンの都から離れる
    (1)王が離れた理由
    (2)コッ・クロクの正確な場所
  3.グエン氏との関係
    (1)カンボジアにおけるベトナム代表団
    (2)プリァッ・テァウの地位に就いたベトナム出身の元王妃
  4.シャムとの関係
    (1)シャムに対する攻撃準備
    (2)カンボジアの攻撃
    (3)クメール=シャム紛争の地域的結末
    (4)カンボジア=シャムの陰で進行する戦争の様相
  5. スレイ・トマリァチァ1世(チャウ・ポニェ・トー)の内政
    (1)王の文学作品
    (2)中国人に関する王の法的措置
  6.王と伯父「ウペァヨーリァチ」の戦い
    (1)王と伯父「ウペァヨーリァチ」の不仲
    (2)両者の闘争
    (3)スレイ・トマリァチァ1世(チャウ・ポニェ・トー)が死亡した日
     1)王朝年代記の情報とオランダ人G. ファン・ヴィストホッフの情報
     2)日本語史料の記述
     3)カンボジアに滞在した最初のオランダ人の証言
  7.王の死後

第6章 スレイ・トマリァチァ1世(チャウ・ポニェ・トー)の2人の後継者
アン・トン・リァチァ(チャウ・ポニェ・ヌー)王(西暦1632-1640)
  1.アン・トン・リァチァ(チャウ・ポニェ・ヌー)王
  2.「ウペァヨーリァチ」の地位の変遷
  3.ロレァン・クロゥルの反乱
  4.コンポン・クロビーとプレイ・ノコー税関の所有権返還請求
  5.オランダとの関係
  6.ウードンのクメール宮廷
   (1)「ウペァヨーリァチ」と王
   (2)ナプラ・テァメダ王女とサッター(チャウ・ポニェ・チャン)王子
   (3)国王の謁見
   (4)クメール宮廷の高官たち
   (5)オランダ史料に初めて登場したクメールの国
  7.アン・トン・リァチァ(チャウ・ポニェ・ヌー)王の死
ボトムリァチァ1世(アン・ノン)(1640-1642)
  1.アン・トン・リァチァ(チャウ・ポニェ・ヌー)王の後継者
  2.ボトムリァチァ1世(アン・ノン)王
  3.G. ファン・ヴィストホッフのトンレ・トムの旅
   (1)サムボック地方とサォムボー地方
   (2)プノーン族の後背地とナム・ノイ地方
   (3)当時のカンボジア=ラオス関係
  4.「ウペァヨーリァチ」ボロムリァチァ(ウテイ)と ボトムリァチァ1世の暗殺

第7章 リァメァティパデイ1世(チャウ・ポニェ・チャン)(1642-1658)
  1.リァメァティパデイ1世(チャウ・ポニェ・チャン)の権力の確立
   (1)サッター(チャウ・ポニェ・チャン)王子
   (2)サッター(チャウ・ポニェ・チャン)王子の反乱の勃発
   (3)サッター(チャウ・ポニェ・チャン)王子による権力掌握
   (4)リァメァティパデイ1世(チャウ・ポニェ・チャン)の兄の存在
  2.リァメァティパデイ1世(チャウ・ポニェ・チャン)による初期の治世
   (1)抑圧の継続
   (2)王のイスラームへの改宗
   1)王の改宗理由
     2)王が改宗した後の王国
  3.ベトナム出身の王女との関係
  4.隣国との関係
   (1)ラオス王国との関係
   (2)チャンパー王国との関係.
   (3)シャム王国との関係
   (4)ベトナム南部政権との関係
  5.ヨーロッパ人との関係
   (1)ポルトガル人とスペイン人との関係
   (2)オランダ人とポルトガル人の敵対関係
   (3)クメール人とオランダ人との関係
     1)コルネリス・クレイ大使の交渉
     2)アルマン・ブルックマンの報告
     3)カンボジアにおけるオランダ人の虐殺
     4)オランダの反撃
     5)クメール=オランダ戦争の直後
     6)新クメール=オランダ協定
     7)オランダ商館の再びの設置
   (4)英国人との関係
     1)初期の関係
     2)カンボジアにおける英国人の活動
     3)英国商館の閉鎖
     4)その後の英国人との関係
     5)英国人が見たカンボジア
  6.王子たちによる反乱以前の支配者層
   (1)王妃と王女たち
   (2)王子たち
   (3)高官たち
  7.王子たちによる反乱
(1)1658年以前に反乱の企てはあったのか
   (2)反乱の勃発
   (3)敵対関係
  8.ベトナムの第1次軍事介入
   (1)反乱を起こした王子たちの外国への訴え
     1)1658年のシャムの介入
     2)王の陣営におけるベトナム兵の存在
     3)反乱を起こした王子たちへのベトナムの支援
   (2)フースアンの軍事介入
     1)ベトナムの攻撃
     2)クメールの王子たちとベトナム軍との衝突
     3)ベトナム人のカンボジアでの略奪行為
     4)ベトナム人とクメールの王子たちとの紛争


第8章 ボロムリァチァ8世(アン・ソー)(1659-1672)
1.ボトムリァチァ(アン・ソー)王子
2.ベトナムとの係争
   (1)元王の復権とその死
   (2)続くベトナムの策略
  3.王国の治安の回復
   (1)チャム人とマレー人の反乱
   (2)元国王支持者たちの出国
  4.ボロムリァチァ8世(アン・ソー)の即位礼
  5.ウードン宮廷の情勢
   (1)ボロムリァチァ8世(アン・ソー)
   (2)治世の初期
     1)白象の捕獲
     2)バラェン・リァチの反乱
   (3)ウテイ・ソリヴォン(アン・タォン)王子の「ウペァヨーリァチ<ubhayorāj>」昇格
     1)ウテイ・ソリヴォン(アン・タォン)王子
     2)「ウペァヨーリァチ」に昇格したウテイ・ソリヴォン(アン・タォン)王子
   (4)王と「ウペァヨーリァチ」の対立
   (5)王家内部にもち上がった新たな分裂の危機
  6.VOCのオランダ人との関係
(1)在カンボジアオランダ商館の再開
   (2)在カンボジアオランダ・ロッジの事業
  7.カンボジアで最初のフランス人宣教師
  8.ルイ・シュヴルイユ神父の見たカンボジア
  9.グエン(阮)氏との関係膠着
   (1)カンボジアにおけるベトナム人の存在
   (2)カンボジアにおける中国人の存在
     1)過去におけるカンボジアの中国人とその活動
     2)ボロムリァチァ8世(アン・ソー)時代の中国人
   (3)中国人とベトナム人の闘い
   (4)カンボジア、フースアンに対する従属関係に終止符をうつ
   (5)ボロムリァチァ8世(アン・ソー)とチン(鄭)氏との接触はあったのか
  10.在カンボジアVOC商館の閉鎖
  11.ボロムリァチァ8世(アン・ソー)の暗殺

第9章 ボロムリァチァ8世(アン・ソー)の2人の後継者
ボトムリァチァ2世(スレイ・チェイチェット)(1671-1672)
  1.ボトムリァチァ(スレイ・チェイチェット)王子
  2.王の暗殺がもたらした結果
   (1)「ウペァヨーリァチ」リァメァティパデイのベトナムの国への逃亡
   (2)「ウペァヨーリァチ」リァメァティパデイ(ウテイ・ソリヴォン・アン・タォン)の近しき者
   (3)逃亡者「ウペァヨーリァチ」の活動
  3.ボトムリァチァ2世(スレイ・チェイチェット)の即位
  4.ボトムリァチァ2世(スレイ・チェイチェット)の暗殺
   (1)王とプリァッ・テァウ・クサットレイ王女との婚姻
   (2)王の暗殺
ケオ・ヴェァ2世(アン・チー)(1673-1677)
  1.ケオ・ヴェァ2世(アン・チー)の即位
  2.ケオ・ヴェァ2世(アン・チー)
3.治世初期
   (1)プリァッ・テァウ・クサットレイ王女の暗殺
   (2)暗殺の理由
   (3)アン・ノン王子
   (4)ケオ・ヴェァ2世(アン・チー)とアン・ノン王子の対立
  4.カンボジアへのベトナムの第2次軍事介入 (1673-1679)
   (1)ベトナムによる介入の原因
   (2)初期の軍事行動
  5.「ウペァヨーリァチ」リァメァティパデイ(ウテイ・ソリヴォン・アン・タォン)の死
  6.対立の継続
   (1)ベトナムの敗退
   (2)ベトナム軍の一部撤退とその後の兵力増強
  7.カンボジアの分割
   (1)アン・ノン王子の「ウペァヨーリァチ」の地位への昇格
   (2)暗黙のカンボジア分割
  8.ベトナム介入軍の撤退
   (1)ケオ・ヴェァ2世(アン・チー)とアユッタヤー宮廷の関係
(2)「ウペァヨーリァチ」ボトムリァチァ(アン・ノン)とフースアン宮廷の関係
   (3)ベトナムの離脱
  9.王と「ウペァヨーリァチ」の対立の継続
  10.ケオ・ヴェァ2世(アン・チー)の死

第10章 17世紀、最後の2人の王 :チェイチェッター3世(アン・ソー)とリァメァティパデイ2世(アン・ヨーン)
チェイチェッター3世(アン・ソー)(第1次政権:1677-1695)
  1.チェイチェッター3世(アン・ソー)の即位
   (1)チェイチェッター(アン・ソー)王子
   (2)チェイチェッター3世(アン・ソー)、王権力の座に就く
  2.ベトナムの国への「ウペァヨーリァチ」の再びの逃亡
   (1)カンボジア王朝年代記が伝える状況
   (2)ベトナム年代記が伝える状況
   (3)西欧の史料が伝える状況
  3.ベトによる第3次軍事介入以前のカンボジア
   (1)トロノム・チロゥンの地の整備
   (2)ジャン・ジュヌー神父が見たカンボジアの諸相
     1)シャムからカンボジアへの旅
     2)王の謁見と宣教師たちのプノン=ペンへの帰還
  4.ベトナムの第3次軍事介入(1682-1688)
   (1)「ウペァヨーリァチ」の新たな戦争準備
     1)ヒエン・ヴォン氏の援助
     2)中国の援助
       ―明朝支持者たちのコシャンシン到着
       ―中国人指導者チェン・チョン・クン(Cin Cuṅ Gun)の名前=肩書
       ―他の中国人集団
   (2)「ウペァヨーリァチ」の攻撃
     1)カンプチア・クロムの征服
     2)ウードンの都の襲撃と占領(1682年12月25日)
     3)シャムの反応
   (3)ウードンの王の反撃
     1)「プリァッ・テァウ」の解放
     2)軍事行動の継続
     3)ウードンでの王の復権(西暦1683/4年)
   (4)スレイ・サントーに住する「ウペァヨーリァチ」(西暦1684/5年)
   (5)両陣営の新たなる対決
     1)1684~88年の対立
     2)チェイチェッター3世(アン・ソー)へのシャム王の新たなる救援
     3)両陣営の闘いの続行
  5.ベトナムの第4次軍事介入(1688-1690)
   (1)クメール語原典の情報
     1)チェイチェッター3世(アン・ソー)の病気と譲位
     2)ウードンの王の陣営における裏切り行為
     3)西暦1688/9年の衝突
     4)「ウペァヨーリァチ」へのベトナムの新たなる支援(西暦1689/1690年)
     5)ウードン国王軍の反撃
   (2)ベトナム語原典の情報
     1)ミトー(ピェム・メサォ)の中国人の反乱
     2)ベトナムのカンボジア攻撃
   (3)クメール語とベトナム語原典の一致点と相違点
  6.チェイチェッター3世(アン・ソー)の即位礼
   (1)王妃の正確な身元
   (2)もう一人の王妃の存在と王の子供たち
  7.「ウペァヨーリァチ」ボトムリァチァ(アン・ノン)の死
  8.ベトナムによるカンボジア分割の始まり
   (1)カンボジアにとっては平和への希望なのか
   (2)20年の戦争で失った領土
  9.カンボジアのアユッタヤー王国との関係
   (1)シャムの属国カンボジア
   (2)一部の領土においてカンボジアは権限を喪失したのか
  10.王国の内政再編
   (1)拠点整備
   (2)法の改正
   (3)王国の行政官職への肩書保持者の任命
  11.カンボジアは安住の地か
   (1)ラオス人のヴィエンチャンからカンボジアへの到来
   (2)ベトナムの拘束から逃れてきたチャム人たちのカンボジア到来
  12.「ウペァヨーリァチ」ボトムリァチァ(アン・ノン)の元支持者たちによる反乱
  13.ジェメリ・カレリによるカンボジアに関する様々な報告
  14.チェイチェッター3世(アン・ソー)の再譲位
リァメァティパデイ2世(アン・ヨーン)(1695-1696)
  1.トーマス・ボイヤーのグエン朝宮廷への訪問
  2.王の死
チェイチェッター3世(アン・ソー)(第2次政権:1696-1700)
  1.白象の捕獲
  2.国民和解への試み
   (1)フースアン宮廷との交渉
   (2)アン・イム王子のカンボジアへの帰還
   (3)アン・イム王子と王の娘との結婚
  3.ベトナムによるクメール領プレイ・ノコー地方およびドーン・ネイ地方の公式な併合(1698)
   (1)低地カンボジアを組織するため任命されたベトナムの副王
   (2)カンボジアの反撃はあったのか
  4.ベトナムのカンボジアへの第5次軍事介入(1699-1700)
   (1)クメールの高官によるベトナムの介入の要請
   (2)カンボジア王朝年代記から見たベトナムの攻撃
   (3)ベトナム年代記から見たフースアンの攻撃
  5.チェイチェッター 3世(アン・ソー)の再譲位

結 論
  1.アユッタヤー王国との関係
  2.ベトナムとの同盟とその破綻
  3.破綻の結果
   (1)過去のシャムとの戦争
   (2)ベトナムとの戦争
  4.新たなシャムの後見
  5.カンボジアの責任
   (1)王と大王侯
   (2)「保護者と被保護者」のシステム
   (3)クメールの国とその国境の概念
  6.17世紀半ば以降のカンボジアの急速な衰退における指導者たちの責任
  7.その後のカンボジア


カンボジア王統王位の一覧(16世紀~18世紀)
カンボジア王統王位の系図(16世紀末~18世紀初頭)
地 図:17世紀のカンボジアおよびその近隣諸国
地 図:プノンペン、ウードン、スレイ・サントー
年 表
参考文献

マック・プン先生の紹介
あとがきにかえて

索 引

前書きなど

まえがき

 カンボジアの王朝年代記を基にした数々の研究、およびクメールの国歴史の一部を問う研究などを続けてきたおかげで、王朝年代記を基本史料とした今回の16世紀末~18世紀初頭のカンボジアの歴史について研究を進めることができた。本書で採り上げるこの16世紀末~18世紀初頭という時代区分は、決して恣意的なものではない。この時代の発端である16世紀末は―西暦1594年―、シャムがロンヴェークの都を占領した時期であり、一つの時代が終わったことを示している。この時代の終わるのは18世紀初頭―西暦1700/1年―であるが、これに僅かに先立つ1698年にベトナムは初めてクメール領の一部であるカンプチア・クロム(低地カンボジア)を公式に併合し、これより新たな時代が始まった。したがってこれら2つの歴史の変わり目に挟まれたカンボジアの17世紀は、クメールの国にとって重要な時代と見ることができよう。この時代、クメールの国は、政治的にも経済的にも徐々に衰退していったが、もし指導者たちにより先見の明があったなら、また敵対する相手が一つだけであったなら立ち直ることができたかもしれない。
 本書の目的は、17世紀全般に渡って展開した歴史的な事件を辿ることにある。利用する原典の性質上、本書で検証が求められる歴史は事件本位のものに留まる。とりわけ君主および大王侯の行状に関して、
そしてわずかではあるが、王国の大高官の行状についても採り挙げていく。その際、それらをただ述べるだけではなく、それらの理解に努める。このように考えるのは、ものごとは単独には起こり得ないからである。また本書では特に、それらが度々互いに関係していることや、予測可能な因果関係を示していることも指摘する。とりわけ、王国の将来に決定的なインパクトを与えたことや、それがカンボジア社会全体に明らかな影響を及ぼしていることに注目したい。ここでは、語るべき出来事の信憑性をできるだけ明確にし、また様々な歴代の政権君主およびその縁戚について、カンボジア王朝年代記に加えて外国人旅行者の手記および隣国の年代記などを参考に解明していきたい。これらの出来事が物語っているのは、第1にクメール民族の歴史であり、第2に―それが王国内外の事柄と互いに絡み合っていることに関連して―クメール王国とますます強大になっていった両隣国、すなわちシャム次いでグエン(阮)朝との関係史である。これら2大隣国に比べると簡潔なものではあるが、カンボジアと別の2つの隣国―チャンパー(チャンパ〔Champa〕)とラオス―との関係に関わる情報にも触れたい。同時に、カンボジアの宮廷と外国人―西欧人およびその他―との間に築き上げられた関係についても描き出していきたい。クメール王国との交易を目的に来訪した彼ら外国人たちは、その時々の政治あるいは軍事において注目すべき、また特筆すべき非常に重要な役割を果たした。

 本書では、第一に、いくつかの史実をそのあるべきところに戻し、また王と大王侯たちの名前=肩書、一部の王侯またはその他の個人の身分、重要性の高い出来事の年代や時が経つにつれて忘れ去られてしまったいくつかの重要な地名といった依然として議論となっている問題について明らかにしていきたい。しかし、いくつかの不明な点は解明することができたとはいえ、なおいくつかは仮説の段階にすぎない。さらにその内のいくつかは納得できる答えが得られぬままである。またその過程で、王位継承問題―これこそ最も重要な論点であり、クメール王族間のまことに好ましからぬ対立についてほぼこれで説明がつく―のように、王位継承に必ずと言っていいほど絡んでくる王女たちの役割や、本来の規範が度々曲解されてきた「ウペァヨーリァチ(ubhayorāj)」の地位の変化など、物事の要となるカンボジア独特の制度様式なるものの理解に特に努める。
 第二に、本書では、カンボジアの2大隣国―まずシャム王国は、ほぼ17世紀前半を通して重要な役割を演じてきた。この時代に、クメールの宮廷に対して宋主権を突きつけようとしてきたからである。続いてグエン朝ベトナム政権が、17世紀初めの数十年頃からカンボジアに登場してきた―が、17世紀後半を通してクメールの国にどのような方法で政治的・軍事的圧力をかけるのに働きかけてきたのか把握していきたい。本書は、これら2つの国が、一体どのようにしてカンボジアの様々な国王たちへの支配を強めていくことができたのか見ていく。そしてとりわけ、クメール王国の不幸が、この時代にこれら2大隣国によってもたらされたということだけでなく、クメールの支配者層の行動にも原因があることを示していく。彼ら支配者層の行動を説明するために、本書は17世紀の社会・政治・行政システムに関するいくつかの局面に注目する。著しい脆弱性が目立つこのシステムは、王族内部の軋轢を引き起こすきっかけになり、それが国の弱体化につながった。この時、カンボジアは、当時の何人かの執筆者たちが強調しているように、先のシャムとの戦争によって住民の大半を失っていたのに対し、ベトの国の方は、軍事・行政面において強力に組織化されており、より人口密度が高かった。
 本書は、とりわけ年代学に基づいて進める。重要な君主の時代毎に一つの章を充てるが、また時に短期間の治世については、2人または3人の君主を一纏めにして同じ章とすることもある。巻末に支配者一族の系図を掲載している。この系図から、リァム1世もしくはチュゥン・プレイのリァム―王位簒奪者と考えられている―とその息子で後継者であるリァム2世(チャウ・ポニェ・ヌー)も含めて、本書が対象とする時代に、5世代のクメール国王―リァム1世をはじめボロムリァチァ3世の息子たちが第1世代で、チェイチェッター3世(アン・ソー)の甥が第5世代を築いた―が、カンボジアに君臨していたことが分かる。
 本書では、地名に関しては一般に用いられている綴り(転写)を用いる。問題はシャムあるいはベトナムに併合されたクメールの土地の表記で、これらは併合によって変更されている。読者の理解を助けるために、これに該当する地名が出てきたところで、必要に応じてタイ語またはベトナム語に相当する名前を通常のローマ字表記で示すことにする。逆もまた然り、タイ語またはベトナム語でこれらの地名をまず示す必要がある場合には、もとのカンボジア語の地名を同様に付記する。本書巻末に掲載した2枚の地図には、重要な地名やかつてのクメールの地域名を一般的なカンボジア名にしたがって表記してある;タイ語あるいはベトナム語での名前はインデックスで確認することができる。外国の地名に関しては、最も一般的に認められた頻度の高い表記で示した。
 固有名詞やカンボジアの国王および高官の肩書、また引用したカンボジア語の写本名や著作名は、国際表記法を採用した。研究の対象にした君主のリストは付録で示している。その際、使用されている翻字法に加えて最も一般的に採用されている表記(転写)を用いて、彼らの名前=肩書というカンボジア語の特性を考慮した表記で示している。外国の君主名あるいはその他の外国の重要人物の名前については、最も一般に使用されている表記に準じたのは言うまでもない。

 本書の出版にあたり、ご支援頂いた方々に厚くお礼申し上げる。
 まずはピエール・ベルナール・ラフォン教授に深謝申し上げる。ラフォン教授には、本書の構成全般に渡って親身にご指導頂いた。また教授には、強く心を動かされた昨今の出来事 について際立った助言を教示して頂いた。同様に、ジャン・デルヴェール教授にも心からの感謝を申し上げる。教授の助言と励ましがあったからこそ、この研究をやり遂げることができた。さらに、レオン・ヴァンデルメルシュ教授 とドニ・ロンバール教授 にも感謝の意を表する。このお2人のおかげで、本著はフランス極東学院の単独研究書として出版することができた。加えて、本書の考証および推敲にあたって助けて頂いた多くの方々に心からお礼を申し上げる。とりわけ、ドミニク・ド・リブラ夫人、マリー・ポール・ロペス夫人、ミシェール・ヴァルラン夫人、友人のロッシュ・フレン氏、ポ・ダルマ氏、プラヤット・ニシャラノン氏、シム・ファリ氏、そしてヤン・バオユン氏に感謝を申し上げる。

著者プロフィール

マック・プン  (マック・プン)  (

マック・プン Mak Phoeun
カンボジア・プレイヴェン州生まれ。1965年、王立プノンペン大学卒業。1972年フランス政府給付留学生として渡仏。1992年パリ第3大学フランス国家博士号を取得した。本書はその博士号取得論文である。現存する多種の『カンボジア王朝年代史』と欧米の東洋学者の著作を比較研究し、新しい視座からカンボジア・シャム・ベトナムの関係を問い直した本書は、フランスの研究者から絶賛を博した。

石澤良昭  (イシザワヨシアキ)  (

石澤良昭 いしざわ よしあき
1961年上智大学外国語学部卒業。文学博士(中央大学)。第13代上智大学学長(2005-2011)。現在、上智大学教授(特任)、上智大学アジア人材養成研究センター所長、上智大学アンコール遺跡国際調査団団長。2017年カンボジアのアンコール遺跡の保存修復および人材養成への貢献により「ラモン・マグサイサイ賞」を受賞。
専攻:東南アジア史(特にアンコール王朝時代の碑刻学)
主な著書:『東南アジア多文明世界の発見(学術文庫)』(講談社)、『新・古代カンボジア史研究』(風響社)など。

佐藤恵子  (サトウケイコ)  (

佐藤恵子 さとうけいこ
上智大学大学院外国語学研究科地域研究専攻博士前期課程修了(2007年)。上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻博士後期課程満期退学(2010年)。博士(地域研究)[上智大学大学院]取得(2011年):「アンコールの大規模水利事業―11世紀を境とするバライ造営意図の変容―。現在、上智大学アジア人材養成研究センター研究員、上智大学アジア文化研究所客員所員。
専攻:東南アジア史(特にクメール刻文研究)

上記内容は本書刊行時のものです。