牡蠣とマトンと版元ドットコム
「版元ドットコムに興味ありませんか?」
2020年6月に書店を辞めてノホホンと福島県の只見でキャンプをしながらマトンを食べていた時、そんなメールが届いた。
ちなみにその昔、羊毛が盛んだった只見の地域では肉を食べる習慣がなかったが、赴任してきた教師が「それなら羊を食べればいいじゃない」と言って以来、この地では羊を食べるようになったとか。
メールは現・よはく舎の小林さんからだった。
小林さんは僕が千葉で「16の小さな専門書店」を立ち上げて店長をしていたときに何度か遊びに(営業だったのか?)来てくれていた。
返信しようと「興味あります」と入力したが、なんちゅうかこう、素っ気ない返答のような気がして「!」を付け足し「興味あります!」と書いて送信した。これでかなりヤル気がみなぎる文面になった気がした。しかしこの時点ではまだ版元ドットコムが何をやっているところなのかよく知らなかった。書店員時代に新聞書評で取り上げられた本の問合せがあったときなどにアーカイブしている版元ドットコムを利用したことが「あったなあ」くらいのボンヤリとした印象だけだった。
僕はマトンをパクつきながらも、誘われた版元ドットコムという謎の組織についてはあまり深く考えてはいなかった。
無職になって2ヶ月が経とうとしていた。
福島県檜枝岐村でキャンプをしながら北海道の仙鳳趾から取り寄せた牡蠣に舌鼓を打っていると、小林さんから秋の書店WEB商談会のイベントをお願いしたいと依頼のメールが届いた。このときから遡ること数ヶ月前、書店員歴が長いだけが取り柄の僕が書店に役に立てるのは相談に乗ることくらいだと思い、Twitterで「書店員お悩み相談」と銘打って現役書店員たちの恋とお金以外の相談に乗っていた。小林さんはその相談会を書店web商談会の前夜祭でやってほしいとのことだった。
その時、僕は牡蠣を呑み込みながらも、誘われていた版元ドットコムという謎の組織についてはまだなにも考えてはいなかった。
ちなみに北海道仙鳳趾の牡蠣は、牡蠣で有名な厚岸の湾を挟んだ向かい側に位置するものの、厚岸の牡蠣とはまた違った味わいでお勧めである。
10月に入り、フリーで仕事を請け負っていた僕は茅ヶ崎の開高健記念館での撮影仕事をしていた。撮影を終え、茅ヶ崎の焼肉屋で牛タンをパクパク食べていると、小林さんから版元ドットコムとの面談のお知らせが届いた。
ついに版元ドットコムと対峙することになる。
背中を軽く震わせた僕は、開高健がいつも座っていたカウンター席を眺めながらタン塩を二切れほど口に放り込んだ。そう、この茅ヶ崎の焼肉屋「ジンギスカン」は開高健がロマネコンティを持ち込んだ伝説の焼肉屋である。この時、牛タンをパクパクと食べている僕は版元ドットコムという謎の組織についてまだまだ深く考えてはいなかった。
面談当日、小林さんもいることだし、知らない人たちばかりを前にしても大丈夫だろうと余裕をかましていたが、当日小林さんは欠席だった。完全アウェーの面談(当たり前)。
「パソコンはできますか」「〇〇な仕事はできますか」「好きな食べ物はなんですか」といった高難度の質問には、マトンも好きだし牡蠣も好き、けど牛タンも好きだしなぁと頭を悩ませながらなんとか回答をひねりだし面談は終了した。この時点でも版元ドットコムという謎の組織についてはよくわからなかった。
その後メールなどのやりとりを終え、採用の連絡があった。しかし年内は無職を満喫して遊びたかった僕は、仕事始めを2月くらいからにしてもらえるよう版元ドットコムに相談した。
OKだった。
版元ドットコムはなんて素晴らしいところなのでしょう。
そんな縁と経緯があり2021年の2月から僕は版元ドットコムで働き始めた。
版元ドットコムが一体なにをやっているのか知らなかった僕は、業務を重ねていくたびにその活動内容は驚きと感心の連続だった。
それは版元ドットコムが出版の“情報”を扱っていたからである。
ネット上に出回っている本の情報はどのように扱われ、誰が管理しているのか。
書店員であった僕は、現物の本を扱い、その制作から流通までは知っていたつもりであった。
ネットで一冊の本を検索すると表示される本のデータを眺めて欲しい。その情報がどこで作られ、どこに集められ、そしてどのように拡がっていくのか。その情報の流れを知っている書店員はほとんどいないのではないか。
もしかすると情報を発信している出版社の人間も、自社の新刊の情報がどのようにこの世の中に流れているのか、その“情報流”について知っている人は少ないかもしれない。
版元ドットコムは会員社の書誌情報を集約して配信し、また出版全体の書誌情報も扱っている団体だったのである。ああ、驚いた。
書店と同じ本のそばで働くことでも、版元ドットコムから見える景色は書店員時代とは全く違っていたのだ。
“見えてなかった景色”はそれだけではない。
版元ドットコムは現在(2021年9月時点)は会員社400を越える。そこに書店員時代に知っていた版元は両手で数えるほどしかなった。
書店員にとって普段接している出版社とは一般的にトーハン、日販、楽天といった大手取次と取引のある出版社のみである。多くの書店員は取次が制作していたあの「取引出版名簿」に掲載されている出版社が日本で全ての出版社だと思っていないだろうか。
当然ながら名簿に掲載されている出版社は“大手”取次と取引がある出版社のみであり、取次と取引ができない出版社は掲載されていない。つまり大手取次三社と取引ができていない出版社は書店員にとっては存在しないものとして目に触れることはない。
書店員にとっては“トーニ楽にあらずんば版元にあらず”だったのだ。
版元ドットコムにいると出版社から見えている景色も眺めることができる。
本の作り手である出版社が本をどのように読者へ手渡すか、その考えまでが見えてくるのだ。
しかしそこには書店が出版社の一部分しか見えていなかったように、出版社もまた書店が本をどのように見て、どのように判断して、読者へ渡しているのかが見えている版元は少ない。
良い本を作ったとしても、書店の全てがその本を理解し、吟味してくれるとは限らない。また「良書」であることが必ずしも販売に繋がるわけでもない。
現在の書店は人員も少なく、一人で二つ三つの担当ジャンルを掛け持ちしている書店員がほとんどだ。書店員の仕事は毎日が引越し作業をしているようなもので、毎日が文化祭の準備だと思えればマシな世界だ。
そうした書店の現場では煩わしさは嫌われ、知らない版元の本を時間をかけて判断することは稀だ。
書店からの見える景色と出版社の見えている景色は同じではなかった。
僕はいま版元ドットコムを利用して、書店で本を売ることに喜びを感じながらも業務への苦労を抱えている書店員にむけて、書店の業務に役に立つツールを提供する仕事を進めている。また出版社が自社の本を書店にリーチできるその手助けも版元ドットコムは行っている。
版元ドットコムは書店から見える景色と出版社から見える景色が同じになるように、日夜活動している。
と、いうのを5ヶ月目くらいに理解した。
25年書店員を続けても見えてなかった景色。
書店員だからこそ見えていなかった出版の景色。
その見えなかった景色が版元ドットコムからは鮮明に見える。
それも、本のそばで働くことが好きな僕にとって、ここからの景色はまさに絶景だった。
こうして版元ドットコムの謎はようやく霧消した。
しかし小林さんはなぜいつも食事中にメールをしてくるのか、それだけがまだ謎のままだ。
【すずきたけし】1974年生まれ。元書店員。
書店員歴25年。総合書店で店長を20年。2017年にコンセプト系書店に携わり、2021年から版元ドットコム事務局とライターの二足のわらじ。ほか燈光会会員・ひなびた温泉研究所研究員。