何かが変わろうとする気配? ──11月の三つのシンポ
11月〔2014年〕は、記念講演会をはしごしました。たまたまこれらが連なったというのも、節目というべきか、この時代を語るなにかなのかもしれません。
その一つは、「堀尾青史の世界から紙芝居の明日へ展」。宮澤賢治の伝記作者にして紙芝居作家の堀尾さん、生誕百年記念のイベントでした。堀尾作、賢治童話の紙芝居上演、賢治の弟清六さんの孫、宮澤和樹さんの講演など、「賢治と紙芝居」を主題とする集まりでした。これが大盛況、主催者の子どもの文化研究会は定員120名とされていましたが、補助椅子を数十は出していたと思います。
私は、戦後の空き地で紙芝居を見た最後の世代かもしれないのですが、声、それも肉声について考えさせられました。声には、語るその人の心身の全体情況が現れます。それに、どこで上演しても同じというわけではない、響き方とか匂いとか、その場所の個性が大きく関係してきます。パソコンのディスプレイに張りつくようにしている、自分の日常を思い合わさざるをえませんでした。二次元の平面に展開する記号の列、音も匂いもなく、ひょっとすると書かれている出来事の歴史すら、つまりそこに折り畳まれている固有の時間すら、捨象されているのではないかと思われてきます。
だれでも、いつでも、どこででも、情報に接し、また発信することができるという利便性の反面というべきなのでしょうが、これは間違いなく、ある種の渇きといったものを生んでいる、この会の活況もその現れの一つかもしれない、などと思ったことでした。
二つ目は、井筒俊彦をめぐるシンポジウム「伝播する井筒俊彦」、生誕百年記念トークセッション。コーディネイターは、批評家で井筒研究者、若松英輔氏、講演者は、折口信夫論で登場された思想家、安藤礼二氏、ユング派分析家で臨床心理士の河合俊雄氏、そして心理占星術研究家の鏡リュウジ氏。これがまた大賑わい、三百人は収容可能かと思われる大教室がほとんど埋まっていました。
とりわけ、後半の四人の方々によるシンポが面白かった。それぞれ違う角度から、井筒哲学とは何だったのか、何をバネとして生まれた神秘哲学なのか、そして「神秘」とはいかに付き合うべきものなのかについて、時にためらいつつ、またある場面では大胆になさったお話が交叉し、微かですけれども大切な「意味の場」といったものが広がってゆく気がしました。
「語りえぬもの」に向き合って、思想家はさまざまな姿態を採ります。擬態というべきものかもしれないそのヴァリエーションは、〇の地点から神学・哲学体系までの幅を持つのだと思います。「〇」とは、例えば「語りえぬもの」と名指す行為すらすでに言葉に拠っているとして、沈黙と身体感覚にすべてを集中しようとする構えです。〇と壮大な構築物としてのシステムの間に、無数のニュアンスを持つ位置取りがあるようですが、ここにはどれが正解というパターンはないのでしょう。これが正しい、ここが達成と思った瞬間に、噓になってしまう、転落してしまうという、そこは固有のあり方をする「意味の場」だからなのだと思います。
そんな逆説的な事情を抱えた土俵で、四人の方々が見せた声音と身振り、それが重なり合った時……。
三つ目は、建築家、原広司さんの展覧会「WALLPAPERS 建築家・原広司による、2500年間の空間的思考をたどる写経」に合わせて行われた特別セミナー「宇宙×想像×空間」。出席者は司会を務められた原さんをはじめ、物理学者の大栗博司さん、文芸評論家の三浦雅士さん、そして特別参加の大江健三郎さん。
市原湖畔美術館という、都心からなら正味1時間半はかかろうかという場所にもかかわらず、ここもまた立錐の余地がないほど。会場の外にパブリック・ビューが設けられる盛況でした。そして、若い人が多かった会場は熱気に包まれ、最後にまとめとして語られた大江さんの言葉にあったとおり、知的なテーマの集まりには珍しく、フロアーに一体感すら生まれた瞬間があって、締めくくりはスタンディングオベーションでした。
ダークマターとかダークエネルギーといった現代宇宙論による名づけについて、大栗さんが明快で平易な日常語で語ろうとされ、その努力を原さんが、ご自身の空間論の言葉で受け止めて、突っ込みを入れ、さらに再話しようと試み、そこに浮かび上がった時間・空間の像を、三浦さんが現代の言語論との類比で語ろうとするといった、スリリングな展開でした。
昨今の宇宙像は、実に謎に満ちています。わからないことだらけなのだ、ということを見出したのが、20世紀から21世紀にかけての数学、物理学、宇宙論の成果だといわれるほどです。それが何物なのかわからないままに、とりあえずダークマターと名づける、そんな事態が先端科学の基底にあるのだそうですが、そこにあるのはまさしく言語の問題と言ってよいに違いない。例えば、11次元とか、物質ではないものがこの宇宙の7割を占めている、などといったほとんどイメージすらできない科学研究の最先端で生み出される言葉が、わたしたちの日常を造っている言語というものの基本的な構造とどこかでつながっている。いや、アクロバティックとすら見える科学の言葉の用法が、いつかは日常言語の未だ知られざる構造に、言い換えればわたしたちの実存の気づかれていない根底に光を投げることになるのではないか。そんな印象が、座談の熱気の中から一種異様なリアリティをともなって立ち現れてきました。
最後にもう一つ。先日、ほぼ3年ぶりに、作家、古井由吉さんのお宅を訪ねました。座談は6時間近くにおよんだのですが、ボージョレーの酔いも手伝って、ぽつりと古井さんが言われました。「この時代に、どういうかたちで天才が現れるか。それが楽しみだ」と。「え、天才なんてなものが今後、現れますか?」、すると「現れないわけにはいかないでしょう」。
最後の句を裏返せば、それほどに社会・政治・経済ばかりでなく、文化全般が行き詰まりを見せているという実感に違いないのですが、思いもよらず、新しいものが姿を現す気配、それにはなんとか耳を澄ましていたいものだと思いました。
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