「工藤さんにしかできない」から考える出版起業
まったく私事なのですが、新規出版社(「ころから」という名称だけ決まっています)を立ち上げるべく、年内をもって第三書館を退社することにしました。
版元ドットコムでのお付き合いは5年弱という短い期間でしたが、高円寺での「本の楽市」イベントをはじめ、さまざまなお世話になりましたことを、この場を借りてお礼したいと思います。
さて、「新しく出版社を立ち上げる」と申しますと、「(取次)口座はどうするの?」と、業界の方からも、そうでない方からも尋ねられます。
取次システムは、その完成度の高さゆえに口座を開くことが困難であると広く認識されているようです。
確かにそれは悩みのタネですが、諸先輩方にいろんな意見を伺うなかで、多くの方に言われたことがあります。
それは、書店との直取引を行っているトランスビューについて、「あれは工藤(秀之)さんだから出来ることだよ」というものでした。
だれもがそのように話されるし、なおかつ高円寺などで工藤さんの緻密かつ創意あふれる仕事ぶりを間近に見てきた私も、「工藤さんにしかできない」のだと納得していました。
ところが、縁あって、トランスビューを訪ねる機会があり、実際の発送作業を見学させてもらったのですが、そこで目にしたのは、「工藤さんにしかできない」と思われるのは心外だ! という心の叫びでした(相当、大げさに言ってます)。
その発送現場を見るまでは、私も「工藤さん」というブラックボックスが存在して、受注から出荷までを、誰もマネのできない--いわば錬金術のようなシステムによってなされていると妄想していました。が、そんなことはなく、受注データをパソコンに入力し(ちなみにソフトはエクセル)、納品書と送り状をプリントして、本をピッキング、そして梱包して、ドアの前でお待ちかねの宅配業者さんに手渡し、返す刀で請求書をポストに投函して終了なのです。
どこにも、魔女のような錬金術師はおろか働き者の小人さんもいません。ヒミツのシステムが存在するワケではないのです。
ただ、作業を効率化するための細かい工夫--たとえば、A4で出力された納品書を一太刀で裁断するための刃の長いハサミだとか、非常に機能的なテープカッターだとか、オーダーメイドのイケてる段ボール箱だとか--は随所になされていますが、どこにも「工藤さんにしかできない」ことは見当たらないのです。
もちろん、受注以前の書店員との信頼関係であるとか、交渉力であったりといったことは「工藤さんオリジナル」であることは間違いありませんが、それと「工藤さんにしかできない」は、やはり隔たりがあるように思います。
工藤さんによると、直取引のシステムについて視察される出版社は少なくないそうです。が、その多くは、「取次搬入よりも正味がよくなるんでしょ?」という期待感をもって来られるので、多くは期待はずれだとガッカリされるそうです。
というのも、トランスビューが直取引を始めた経緯は書籍(『書店員の小出版社巡礼記』出版メディアパル刊)などで紹介され、私も知ったような気になっていましたが、その本意が、「書店の正味改善」にあるとは恥ずかしくも知りませんでした。
その証拠に、書店の入り正味は取次経由よりも低く、さらには、数少ない取引のある取次に対して、正味を「下げる」交渉を行ったことがあると言います。
出版社が正味を「上げる」ためや、支払い条件を改善するために交渉するというのは聞いたことがありますが、自らの正味を「下げる」交渉というのは、取次の長い歴史でも前代未聞なのではないでしょうか。
この決断は、さすがの私も「工藤さんにしかできない」と感服したしだいです(これは、大げさではありません)。
さて、新たな出版社を立ち上げるにあたって、私自身がどのような流通方式を採用するか、それは相手のあることでもありますから、いまの段階では分かりません。
しかし、重要なことは、取次という選択肢も、直取引という選択肢もある、ということではないかと思います。
すごくシンプルなことですが、「選択肢がある」というのは、新規参入のハードルをひとつずつ下げることになるのではないかと思います。
まったく甘い幻想かも知れませんが、少しでも出版業界の風通しがよくなればと願って、とても小さな一歩を踏みだしたいと思います。
これまで、ありがとうございました。
そして、再び会員社として迎えていただけるようがんばりたいと思います。