2011年夏断想
いつものことですが、猛暑に打ち負かされながら本探し。数群の本の山から探すのだから一苦労です。読みながら引いた線や書き込みの記憶は鮮明なのに、本は姿を見せてくれない。四半世紀ぶりになりますか、その本を読みたいと思ったのは。……
昨年秋にすいれん舎が刊行した『環境総合年表―日本と世界』に続けて「原子力(原発)年表」刊行の企画が始まったのは、「3・11」の数日後でした。福島原発「事故」の被害拡大を知るにつけ、「事のよってきたる所以」を記録し、これからの「原発論議」に寄与するための客観的かつ網羅的な年表+資料集の刊行企画がたちあがったのです。
企画の詳細や編集作業の具体的進行報告は後日にゆずりますが、この間に考えたことの断片を覚書化してみます。
私は1948年生れ、戦後のベビーブーム世代です。瀬戸内の島に育った私が初めて「原子力」という言葉に出会ったのは、記憶していることでは、「鉄腕アトム」が最初です。雑誌『少年』の連載開始が1951年ですから、私が読み始めたのは数年後50年代の半ばでしょうか。手許にある『鉄腕アトム』(光文社文庫版)数冊によると、アトム・コバルト・ウランの名前はもちろん、原子力エンジン、原子力銃、原子工場などなど、次々と出てきます。原子力エネルギーはありますが「核」エネルギーの用語はありません。「原子力平和利用計画」をアイク米大統領が国連総会で宣言したのが1953年12月。核戦争、放射能の恐怖と並存しながら一方で意図的に「原子力への希望」が語られ始め、時代の空気が形成されはじめたころにあたります。社会的事件の波紋の及びにくい田舎にいて、子ども心に「原子力」の万能さを無邪気に感じていた気がします。
私が広島、長崎の原爆投下による被害について知るのはもう少し後で、それよりも、リアルタイムで放射能の恐怖を感じたのは54年から公開された数本の「ゴジラ」映画でした。ゴジラは第五福竜丸の被曝から発想したとされていますが、54年3月の第五福竜丸被曝については憶えていず、59年公開の映画『第五福竜丸』を小学校の映画教室で街の映画館まで出かけて観てはじめて知りました。久保山愛吉、焼津や水爆実験、放射能マグロ、ビキニ環礁などの言葉を記憶しました。
1950年代後半、私の小学生時代に、今日の原子力=原発に係る基本の問題が議論され、あるいはされぬまま、今日に至る原発政策が進められていったのだと、文献・資料を読み知りました。原発建設が本格化する70年代以降については多少知っていたのですが、黎明期のもつ重要性の認識を欠落していました。そのことを教えてくれたのは知り合った樫本喜一さん(大阪府立大学客員研究員、日本近現代史専攻)。労作「幻の〈原子力安全保障委員会〉構想―1958年の坂田昌一と日本学術会議」(「科学」2009年10月号)ほか、彼から原子力黎明期について多くのご教示をいただいています。
「核アレルギー」という言葉があります。私は典型的にその症状を持っていて、核兵器も原子力発電も否。十代の半ば以降ずっと頑固に「核アレルギー」と揶揄されることに揺らぐことなく生きてきた……のですが、私のあたまの一部に「原子力がもたらす希望の未来」が時々顔を出します。(「原発」容認の方角に働くことはないのですが。)これは幼少年期に刷り込んだものなのか。私の中に「核アレルギー」と「原子力が拓く未来」のふたつの要素があり、それら無自覚的に見え隠れするものと向き合わないままに、今日まで来てしまったことを「3・11」以後感じています。これからの「年表」編集作業で対峙することになるのでしょう。
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シカゴ大学の構内には核エネルギー解放記念碑というのがあって、そこには「一九四二年十二月二日、人間はこの地で、さいしょの連鎖反応を手に入れ、核エネルギーの制御された解放(controlled release)の道をひらいた」と書いてあるそうです。確かに、狭い意味ではそうでありますし、遠い将来からみると文字通りそう受けとれるかも知れません。だが、ただ一人生き残った人間が、その解放記念碑を見、そして死ぬということもありうるのです。その時、その人間は、核エネルギーの解放が制御されたなどとは、とうてい考えないでしょう。ひにくなことにreleaseという言葉の意味は、「解放」でもあるし「爆弾投下」でもある。この二つの意味を持っております。原子力の解放は現実には原子爆弾の投下となり、われわれが原子力を制御するどころか原爆の存在がわれわれの行動を制御している。(略)
数日後にやっと見つかった本からのいささか長い引用です。
著者は経済学者の内田義彦さん。「疎外――自分の作ったものが自分の外に出て、自分に
対立する」の説明として例示されているものです(岩波新書、1966年刊)。原爆を原発に置き換えるのにいささかの想像力をも必要としないでしょう。
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