慎太郎の老醜
最近の石原慎太郎を見ていると悲しくなる。
12チャンネルなんかで厚化粧の昔のアイドルが出てきて、出なくなった声を無理やり張り上げて昔のヒット曲を歌っているのに遭遇することがある。思わず目を伏せて、あわててチャンネルを変える、あれと同じ気分だ。
昭和30年代、石原慎太郎はたしかにヒーローのひとりだった。あのころ、日本人はみんな貧乏だった。少しずつ立ち直ってきつつあったが、自信なんてあるわけがない。もちろん拠るべきモラルや価値なんてものもどっかにふっとんでしまっていた。でも、底のほうにエネルギーらしきものがちろちろ感じられた。
そんな、いじいじうつうつしていた日本人に、よけいなこと考えるなよとノーテンキに言ってくれたのが石原慎太郎だった。やっぱりヒーローだったのである。
ヒーローというのは好きとか嫌いとかを超えた存在だ。大衆の欲求のガス抜きみたいなものなのである。好き嫌いを超えているから、なにをやっても大目に見られる。まあ、あいつのことだから、ですんでしまう、実害がないうちは。
でも、自分がそういう存在だということが、いつのまにかわからなくなってしまうのだろう。
つい最近、「石原慎太郎全集」のおおげさな広告を新聞で見た。タイトルはだいたい覚えていて、何点かは確かに読んだはずなのだが、全く中身が思い出せない。結局、彼の小説でこれからも残るのは「太陽の季節」ほか初期のいくつかの短編だけということになるだろう。でも、それでいいじゃないかと思う。あの時代のヒーローだったのは間違いないのだから。
だから、もう恥ずかしい姿はさらさないでほしい。自分の息子のえこひいきや交際費がどうこうとか、中国人を目の敵にするとか、やたら横文字を使うとか。悲し過ぎる。